再交流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/03 02:13 UTC 版)
「広島原爆で被爆した東南アジア人」の記事における「再交流」の解説
.mw-parser-output .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 興南寮跡碑 旧文理大本館。現存する被爆建物広島大学旧理学部1号館。 日本との交流が進む中で、彼らは再来日を果たし当時の日本人関係者との再交流も始まった。 戦後日比賠償協定交渉が行われていく中で来日したフィリピン賠償使節団の中に、広島高師留学生1期生のハリム・アブバカルがいた。1955年アブバカルが来広し、留学生たちの世話をしていたため顔見知りで戦後ほぼ同じ場所に家を再建したH氏に会いに来た。これをきっかけとしてH氏が南方特別留学生の消息をアブバカルのつてを使って調べていくことになる。 1957年オマールの妹が京都に訪れ、オマールの墓を探したが見つからなかった。墓は2本の棒のみであったため年月が経ち朽ち果てつつあった。1958年このことを週刊誌が報道し、それを見て「京都の恥だ。立派な墓を作ってあげたい」と京都左京区のS氏が動きその弟が協力した。オマール家族は当初そっとしておいて欲しいと断ったが、説得の結果イスラム式でならと了承し、円光寺の提供もあって、1963年同寺にオマールの墓が再建立された。 1964年、アジア学生文化協会が南方特別留学生として日本で死亡したニックとオマールとサイド・マンスールの家族いわゆる「客死マレーシア留学生遺族団」を日本に招待し、それぞれ墓がある広島・京都・福岡に案内し慰霊式を行った。この時に合わせ光禅寺住職がニックの墓をイスラム式に建て替えた。 こうして、あるものは日本の外務省やJICAなどの財団・メディアまた経済活動や私事で広島に訪れ、当時の関係者と交流していった。交流の橋渡しと被爆した南方留学生の研究は当時広島大学庶務部国際主幹の江上芳郎が尽力している。被爆者健康手帳は、直接被爆者のペンギラン、ラザク、ラハヤ、ベイ、サガラ、入市被爆者のサム・スハエティ、計6人に交付されている。 被爆死したニックとオマールの法要は毎年関係者によって行われている。また風化させてはならないとH氏が中心となって記念碑の建立に動き、1976年興南寮跡地に近い元安川護岸緑地に「興南寮跡碑」が建立された。 2013年、広島大学はその時点で存命のペンギラン、ラザク、ラハヤの3人に名誉博士号を授与する。2016年、広島にいた9人の南方留学生のうち最後の存命者となったペンギランが亡くなった。 2019年からリニューアルした広島平和記念資料館で、被爆した南方留学生の資料が展示されるようになった。また同年には国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に初めて遺影が登録された。
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