陸奥出羽連絡路の開削
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「日本の古代東北経営」の記事における「陸奥出羽連絡路の開削」の解説
天平5年12月26日(734年2月4日)、庄内平野の出羽柵が秋田平野の秋田村高清水岡(秋田県秋田市)へと移設され、雄勝郡が建郡された。高清水岡の出羽柵は律令国家と北方蝦夷社会が共有する交易推進のための施設としての性格をもっていたため、現地の蝦夷社会に動揺や軍事的緊張をもたらした形跡はあまりみられない。 天平9年1月22日(737年2月25日)、陸奥按察使兼鎮守将軍大野東人が多賀柵から出羽柵への直通連絡路を開通させるために、その経路にある男勝村の征討許可を朝廷に申請した。中央政府から持節大使藤原麻呂、副使佐伯豊人、副使坂本宇頭麻佐らが派遣されると、同年2月より連絡路の建設が進められた。この計画に対して山道と海道の蝦夷の間に疑念が広がったため、海道地方には遠田郡郡領遠田君雄人、山道地方には北上盆地中部の有力族長和我君計安塁を派遣して同様を鎮めさせた。藤原麻呂以下指揮官が多賀城はじめ6城柵を警固する中、大野東人が騎兵196人、鎮兵499人、陸奥国兵5000人、帰服狄俘249人を率いて陸奥国賀美郡から出羽国最上郡玉野まで80里の山道を建設した。さらに玉野から比羅保許山までの80里の道も開通させたが、出羽守田辺難波の献策によって比羅保許山から雄勝までの50里については未着工のまま撤退している。律令国家と蝦夷社会との間で軍事的緊張が発生することはなかった。
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