陸奥出羽連絡路の開削とは? わかりやすく解説

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陸奥出羽連絡路の開削

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 23:59 UTC 版)

日本の古代東北経営」の記事における「陸奥出羽連絡路の開削」の解説

天平5年12月26日734年2月4日)、庄内平野出羽柵秋田平野秋田村高清水岡(秋田県秋田市)へと移設され、雄勝郡が建郡された。高清水岡の出羽柵律令国家北方蝦夷社会共有する交易推進のための施設としての性格をもっていたため、現地蝦夷社会動揺軍事的緊張もたらした形跡はあまりみられない天平9年1月22日737年2月25日)、陸奥按察使鎮守将軍大野東人多賀柵から出羽柵への直通連絡路開通させるために、その経路ある男勝村征討許可朝廷申請した中央政府から持節大使藤原麻呂副使佐伯豊人副使坂本宇頭麻佐らが派遣されると、同年2月より連絡路建設進められた。この計画に対して山道海道蝦夷の間に疑念広がったため、海道地方には遠田郡郡領遠田君雄人、山道地方には北上盆地中部の有力族長我君計安塁を派遣して同様を鎮めさせた。藤原麻呂以下指揮官多賀城はじめ6城柵警固する中、大野東人騎兵196人、鎮兵499人、陸奥国5000人、帰服狄俘249人を率いて陸奥国賀美郡から出羽国最上郡玉野まで80里の山道建設した。さらに玉野から比羅保許山までの80里の道も開通させたが、出羽守田辺難波献策によって比羅保許山から雄勝までの50里については未着工のまま撤退している。律令国家蝦夷社会との間で軍事的緊張発生することはなかった。

※この「陸奥出羽連絡路の開削」の解説は、「日本の古代東北経営」の解説の一部です。
「陸奥出羽連絡路の開削」を含む「日本の古代東北経営」の記事については、「日本の古代東北経営」の概要を参照ください。

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