1652年、アチャンスクの戦闘とは? わかりやすく解説

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1652年、アチャンスクの戦闘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 19:42 UTC 版)

清露国境紛争」の記事における「1652年、アチャンスクの戦闘」の解説

ハバロフアムール川下り今日ハバロフスク近郊見られている烏扎拉(ウラジャイ)あるいはアチャンスクに要塞築いた1652年3月24日地元民訴えにより、駐防(ちゅうぼう寧古塔ニングダ)章京(ジャンギン)、すなわち寧古塔司令官ハイセ(海色)は、寧安からの600人の満州人兵と1500人のダウール族・ドゥチェル族(英語版)兵を率いてロシア人たちと戦った銃器で勝るハバロフ軍が勝利し、ハイセは責任を取らされ処刑された。これが清とロシアの初の戦闘である。ロシア軍は「羅刹ロチャ)」という名で清に伝えられた。清には、羅刹ロチャ)がロシア人だとはすぐにはわからなかった。 1653年春、ハバロフのもとにドミートリー・ジノビエフ指揮下の増援到着したものの、二人の間に不和があり、ハバロフ拘束されモスクワへ移送された。上記のような説の一方ハバロフモスクワ移送は、彼の残虐行為モスクワでも問題になったためだともされる1653年ハバロフモスクワ裁判かけられたが無罪判決を受け、下級官吏登用されアンガラ河皇室移民地の管理人任命された。ジノビエフハバロフ部下コサックオヌフリー・ステパノフ英語版)をハバロフ後任指名した

※この「1652年、アチャンスクの戦闘」の解説は、「清露国境紛争」の解説の一部です。
「1652年、アチャンスクの戦闘」を含む「清露国境紛争」の記事については、「清露国境紛争」の概要を参照ください。

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