1654年-1655年 清-朝鮮軍とステパノフ軍の戦いとは? わかりやすく解説

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1654年-1655年 清-朝鮮軍とステパノフ軍の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 19:42 UTC 版)

清露国境紛争」の記事における「1654年-1655年 清-朝鮮軍とステパノフ軍の戦い」の解説

1653年ハバロフのあとを受け継いだステパノフは、アムール地方責任者となり、沿岸住民からヤサクを徴収した1654年、清は、松花江河口の鑲旗(中国語版出身で、寧古塔アンバン・ジャンギンであり、経験豊富なサルフダ(英語版)を寧安駐屯兵の指揮官にした。この遠征では、清の要請によって、朝鮮鉄砲隊150名が派遣されている。孝宗王率い朝鮮軍参加した、この戦い朝鮮史では「羅禅征伐」("나선정벌"、ロシア征服)と呼ぶ。朝鮮軍1654年1月寧安で清軍に合流した1654年6月には、厚通江戦い(松花江依蘭近く)で、邊岌(ビョング、韓国語:변급)率い1500人の清-朝鮮軍が、ロシア軍400-500人と戦った1655年3、4月には、北京から派遣されたミンガンダリ率いる清軍がステパノフの拠点である黒竜江上流のウスチクマルスク(呼瑪県、フマル)を包囲したが、ステパノフ軍が勝利した。 ステパノフが去ったあと、清は黒竜江上流中流域住民を、強制的に嫩江ノンこう)に移住させ、無人にした。これはステパノフらの食糧補給を断つためであった

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