1654年-1655年 清-朝鮮軍とステパノフ軍の戦い
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「清露国境紛争」の記事における「1654年-1655年 清-朝鮮軍とステパノフ軍の戦い」の解説
1653年、ハバロフのあとを受け継いだステパノフは、アムール地方の責任者となり、沿岸住民からヤサクを徴収した。1654年、清は、松花江河口の鑲藍旗(中国語版)出身で、寧古塔アンバン・ジャンギンであり、経験豊富なサルフダ(英語版)を寧安駐屯兵の指揮官にした。この遠征では、清の要請によって、朝鮮の鉄砲隊150名が派遣されている。孝宗王率いる朝鮮軍が参加した、この戦いを朝鮮史では「羅禅征伐」("나선정벌"、ロシア征服)と呼ぶ。朝鮮軍は1654年1月に寧安で清軍に合流した。1654年6月には、厚通江の戦い(松花江の依蘭近く)で、邊岌(ビョング、韓国語:변급)率いる1500人の清-朝鮮軍が、ロシア軍400-500人と戦った。 1655年3、4月には、北京から派遣されたミンガンダリ率いる清軍がステパノフの拠点である黒竜江上流のウスチクマルスク(呼瑪県、フマル)を包囲したが、ステパノフ軍が勝利した。 ステパノフが去ったあと、清は黒竜江上流・中流域の住民を、強制的に嫩江(ノンこう)に移住させ、無人にした。これはステパノフらの食糧補給を断つためであった。
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