1655年の戦役
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 15:46 UTC 版)
「ロシア・ポーランド戦争 (1654年-1667年)」の記事における「1655年の戦役」の解説
翌1655年の早春、ヤヌシュ・ラジヴィウはベラルーシにおいて反撃を開始し、オルシャを再占拠してマヒリョウを包囲したが、この3か月続いた包囲は何の結果も生まなかった。1月にはシェレメーチェフとフメリニツキーがオフマーチウでポーランド軍を壊滅させ、一方でクリミア・タタールと同盟したポーランドの第2軍がザシュコフでロシア=ウクライナの分隊を打ち破った。 こうした反撃を受けて、アレクセイはロシア軍の軍事行動を急がせ、大量の命令を送って威嚇的な士気鼓舞を始めた。リトアニア軍は対して効果的な防衛戦を展開できず、7月3日にはミンスクをフメリニツキーとチェルカッスキーの軍隊に明け渡した。リトアニア大公国の首都ヴィリニュスは、7月31日にロシア軍によって占領された。この戦勝のおかげで、ロシア軍は8月にはカウナスとフロドナへも占領地域を拡げた。 一方、ロシアのヴォルコンスキー公はキエフを出発してドニエプル川とプリピャト川を航行し、リトアニア人を攻撃しつつ、ピンスクを占領した。トルベツコイの分隊はスウォニムとクレツァクを攻撃し、シェレメーチェフは6月17日に大した抵抗も受けずヴェリジを包囲した。リトアニア軍はいまだコサックによるスタルィ・ヴィホフの包囲に抵抗していたが、フメリニツキーとブトゥルリンは既にガリツィアへの攻撃を始めていた。彼らは9月にはポーランド人の都市ルヴフを攻撃し、ブレスト郊外でヤン・パヴェウ・サピェハを退けるとルブリンに入城した。
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