1658年 清の勝利
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「清露国境紛争」の記事における「1658年 清の勝利」の解説
1657年、サルフダは吉林で40隻以上の船を建造させた。1658年には、漢人造船者によりロシア軍の船に対抗できうる軍艦が建造され、清の水軍に利用された。サルフダは、再び朝鮮から援軍を出させ、 申瀏(英語版)率いる朝鮮軍を連れてアムールへ向かい、ステパノフ率いる少数の艦隊と戦闘した。この水上戦は7月10日に、松花江河口から数キロ離れた場所で行われた。ロシア軍は11隻を失い、生存者は残る1隻に乗って逃げ出した。ステパノフと220人ほどのコサックが戦死し、朝鮮兵も8名戦死、25名が負傷した。 ステパノフを破った清軍は、アムール川下流へも兵を出し、ロシア軍を破り、嫩江や牡丹江に強制移住させていた先住民族のオルチャ(ウリチ)やギリヤーク人を貢納民に加えた。こうしてアムール川沿岸からロシア人はいなくなり、清の勢力が広がった。
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