1050年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 06:00 UTC 版)
1050年代(せんごじゅうねんだい)は、西暦(ユリウス暦)1050年から1059年までの10年間を指す十年紀。
- 1 1050年代とは
- 2 1050年代の概要
1050年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 05:25 UTC 版)
詳細は「1050年代」を参照 1050年頃 -ソランキー朝の王妃ウダヤマティによりグジャラート州パータンのラーニー・キ・ヴァーヴ(王妃の階段井戸)が造られる。 1051年前九年の役( - 1062年)。 フランス王アンリ1世とキエフ大公の公女アンナ・ヤロスラヴナが結婚する。 キエフ・ペチェールシク大修道院(キエフ・洞窟大修道院)が建立される。 1052年 - 最澄に仮託した著作『末法燈明記』などではこの年(永承7年)を末法元年とした。『周書異記』に依拠して釈尊の入滅を周の穆王52年(紀元前949年)とし、正法1000年像法1000年説によりこの年を算定した。 1053年藤原頼通により宇治の平等院鳳凰堂(阿弥陀堂)が建立される。 チヴィターテの戦い(英語版)に勝利したノルマン人が教皇レオ9世を捕虜とする。教皇は捕虜のまま翌年に死去。 1054年コンスタンティノポリスで東西教会の相互破門事件(大シスマ)。教皇使節フンベルトゥスとコンスタンティノポリス総主教ミカエル1世ケルラリオスの両者によって発生。 7月4日おうし座に超新星(SN 1054)出現。後の「かに星雲(M1)」。 1055年 - セルジューク朝軍がバグダードに入城し、ブワイフ朝の勢力を追い払う。 1056年ムラービトゥーンのアブー・バクル・イブン・ウマルが指導者となりムラービト朝が成立。 遼の章聖皇太后の弟蕭孝穆により山西省応県の仏宮寺釈迦塔(応県木塔)が建立される。 東ローマ女帝テオドラが死去し、マケドニア朝の血統は断絶。元老院議員ミカエル6世ストラティオティコスが後継の皇帝となる。 1057年ランファナンの戦いで、スコットランド王ダンカン1世の子マルカムがマクベスを倒す。 東ローマ皇帝ミカエル6世ストラティオティコスが政変で廃位され、イサキオス1世コムネノスが皇帝となる。 1058年セルジューク朝のトゥグリル・ベクがスルタンを称す。 王安石が皇帝仁宗に万言書「仁宗皇帝に上 (たてまつ) るの書」で政治改革を表明。 1059年教皇ニコラウス2世により教皇選挙(コンクラーベ)は枢機卿団によってのみ行われることが定められる。 教皇ニコラウス2世らのメルフィ会議によりロベルト・イル・グイスカルドのアプリア・カラブリア・シチリア公位が認められる。
※この「1050年代」の解説は、「11世紀」の解説の一部です。
「1050年代」を含む「11世紀」の記事については、「11世紀」の概要を参照ください。
- 1050年代のページへのリンク