ヨーク競馬場の零落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 13:24 UTC 版)
こうした話題のある競馬場ではあったが、ヨーク競馬場はしだいに人気も評判も落ちていった。ヨーク競馬場ができた頃から既にイギリスでは競馬専門誌が刊行されていて、全国のレース結果を掲載していたが、ヨーク競馬の結果はこれには掲載されなかった。同誌では「賞金10ポンド以下のレースは掲載しない」という決まりがあったので、ヨーク競馬場の賞金はそれ以下だったのだろうと考えられている。イギリスではたびたび競馬の賞金の最低額を定める条例が定められていて、1740年には「最低50ポンド」と決められていたが、これを下回っていたものと考えられている。18世紀後半にはお隣のドンカスター競馬場でドンカスターカップやセントレジャーなどの高額大競走が行われるようになって大変な賑わいだったのに対し、ヨーク競馬場ではいつまでも旧時代的な何マイルもの長距離戦で重い負担のレースばかり、しかも何回戦も行うヒート競走で、しかも賞金が低かった。当時は競走馬が競馬場から競馬場へ移動するのも徒歩だったから、消耗の大きなレースは敬遠されていった。19世紀に入ると、さらにヨーク競馬場の価値は落ちていった。1840年代にはダービーの1着賞金は5000ポンドに届く勢いだったのに、ヨーク競馬場ではいまだに1着100ポンドのキングスプレートが目玉レースという有様だった。ある年の開催では2日間で4レースしかなく、やってきた競走馬は全部で9頭しかいないという惨状に、当時の専門誌には「落ちぶれたヨーク競馬が行われたが、特に書くことはない」とまで酷評された。1751年に始まった「グレートサブスクリプションステークス」という競走があり、「サブスクリプション」というのは「登録」を意味し、たくさんの登録馬から集めた登録料を売りにしたレースのはずだったのだが、1830年頃には完全に前時代的な施行条件になっていて、登録馬が2、3頭しかいなかった。専門誌には「『グレート』?どこが?『サブスプリクション(登録馬)』?どこに登録馬が?もうやめたら?」とか「主催者は観客に謝るべきだ」などと書かれている。あるレースでは出走馬が2頭だけで、1頭が途中で走るのをやめてしまい、それで決着がついたというものもあった。競走馬セリの最大手タタソールズの創業一族の一人、ジョージ・タタソールは自著のなかで毎年の各競馬場の様子を詳述しているが、1840年には「ヨーク競馬場については割愛する」とだけ書き、翌年からはヨーク競馬場には言及すらしなかった。
※この「ヨーク競馬場の零落」の解説は、「ヨーク競馬場」の解説の一部です。
「ヨーク競馬場の零落」を含む「ヨーク競馬場」の記事については、「ヨーク競馬場」の概要を参照ください。
- ヨーク競馬場の零落のページへのリンク