ヨーク朝国王の統治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 03:56 UTC 版)
エドワード4世として即位したエドワードだが、その統治の初期はサマセット公の息子ヘンリー・ボーフォートらランカスター派の残党による反乱の鎮圧に費やされた。それが落ち着いた頃に、エドワード4世の結婚問題を契機として、彼を国王に押し上げたウォリック伯まで離反した。ウォリック伯はエドワード4世の弟で長女イザベル・ネヴィルの夫クラレンス公ジョージ・プランタジネット、宿敵マーガレットが率いるランカスター派と手を結んで1470年にエドワード4世を追放、前国王ヘンリー6世の復位に成功したが、翌1471年にエドワード4世は反撃に出てクラレンス公を寝返らせ、ヘンリー6世を廃位して復位を果たした。続いてエドワード4世はバーネットの戦いでウォリック伯を討ち取り、テュークスベリーの戦いでランカスター派を撃破しマーガレットを捕らえた(後にフランスへ送還)。そしてヘンリー6世は幽閉先のロンドン塔で殺され、エドワード4世の政権はようやく安定を見た。 だが1483年にエドワード4世が死去すると、王位は12歳の息子であるエドワード5世が継いだが、少年王の摂政となった叔父でエドワード4世の末弟グロスター公リチャードはエドワード5世をその弟のヨーク公リチャード・オブ・シュルーズベリーと共にロンドン塔に監禁した。塔に入れられて以降、王子たちは消息を絶った。 議会は「王たる資格」という文書の中で、前王エドワード4世の結婚は無効であり、そのため2人の王子は庶出子であり、グロスター公こそが正当な王位継承者であると宣言した。1483年7月、グロスター公が即位してリチャード3世となった。
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