政略結婚の背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 09:58 UTC 版)
「キャサリン・オブ・アラゴン」の記事における「政略結婚の背景」の解説
当時のイングランドは、1485年に薔薇戦争が終結して間もなく、ランカスター家の血を引くヘンリー・テューダーとヨーク家のエリザベス王女の結婚により両家の和合が図られ、混乱も収拾されたばかりであった。エリザベスの伯母でブルゴーニュ公妃のマーガレットは一時、イングランド王位僭称者で反乱を起こすパーキン・ウォーベックを公認しており、ヘンリー7世は国内の混乱を抑えるため、マーガレットおよびその婿であるハプスブルク家のマクシミリアン(後の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世)に接近する必要があった。 マクシミリアンは自身の子であるマルグリットをアストゥリアス公フアン王子に、フィリップ(フェリペ1世)をフアナ王女に、それぞれスペイン王家(トラスタマラ家)と縁組させていた。1497年にフアン王太子が、翌1498年にカタリナの長姉イサベルが、そして1500年にイサベルの遺児ミゲルがそれぞれ死去し、次姉フアナが王位継承者となったため、スペインのハプスブルク家による継承が決定的になった。しかも当時のスペインは、カトリック両王によってレコンキスタが完成され、「新大陸」の発見に沸くなど、ヨーロッパ国際社会において勢いを増していた。 スペイン側も、カタリナの父フェルナンド2世は東方への進出のため、フランスを包囲すべく、ハプスブルク家やイングランドとの縁組を希望していた。 このような情勢下で、カタリナとヘンリー7世の長男アーサーとの縁組が企図された。貪欲なヘンリー7世は巨額の持参金を要求し、スペインのイングランド駐在大使デ・プエブラが1489年3月12日に交渉をまとめた。しかし、ハプスブルク家とフランス王家によるブルターニュ女公アンヌを巡る抗争の中で、1492年にヘンリー7世、フェルナンド2世の双方ともにフランスと条約を結び、カタリナの婚約は一度破談になった。 第一次イタリア戦争において、フェルナンド2世はイングランドに前もって根回しし、1495年の神聖同盟にも介入をさせなかった。このことからヘンリー7世は、イングランドがヨーロッパ情勢のキャスティング・ボートを握っていることに気付き、再びイングランドとスペインの思惑が一致したことから縁談が再燃する。1497年に新たな条約が結ばれ、最終的に20万クラウンの分割払いで決着した。 スペイン王家はランカスター家・ヨーク家の祖とそれぞれ姻戚関係にあったことから、アーサー、ヘンリー兄弟にとってキャサリンは父方でも母方でも遠縁に当たった。そのため時のローマ教皇ユリウス2世は教会法規により、1498年に特免状を与えて許可している。 アーサー王太子は1499年と1500年に代理結婚式を挙げ、カタリナとも文通をしていた。特に1500年にアーサーが代理結婚式の後に送った手紙には、父ヘンリー7世の意向(早期の結婚)が反映されているものの、深い愛情が綴られ、カタリナはまだ見ぬ夫に対して親しみを感じるようになった。
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