オーストリアにおける影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 23:33 UTC 版)
「墺土戦争 (1787年-1791年)」の記事における「オーストリアにおける影響」の解説
この戦争はオーストリア、特にウィーンの経済に悪影響を及ぼした。カリンジャーはこう書いている。 ヨーゼフ2世は国内改革を進める時間と資金を得るためには外交の安定が必要だった。戦争が改革に弊害を与える事くらい分かり切っていることだが、ヨーゼフ2世の積極的対外政策は同じく積極的対外政策を推し進めていたエカチェリーナ2世と結びつき、1787年から1790年にはオスマン帝国に対する戦争へ発展してしまった。案の定、戦争は国内経済に打撃を与えた。国債は翌年には2,200万グルデンに急増し、1790年には4億にまで増えた。食料価格と税金が高騰し、新しい徴兵令が施行されると、ウィーンに不穏な空気が漂うこととなり、実際1788年から1789年の小麦の凶作ではウィーンで暴動が発生することとなってしまい、皇帝は人気を失った。 ソロモンによると、「文化界の意気すらも削がれた。徴兵を恐れた多くの貴族が家族を連れてウィーンを脱出、皇帝ヨーゼフに対する幻滅が広まった。彼が啓蒙改革運動を行う承諾を反故にしたとみられたのだった」。
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