オーストリアの侵攻と戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/13 06:19 UTC 版)
「ライタ川の戦い」の記事における「オーストリアの侵攻と戦闘」の解説
1241年以降、ハンガリー王ベーラ4世はモンゴル帝国の侵攻に苦しめられ、モヒの戦いで大敗北を喫した。オーストリア公フリードリヒ2世はこのハンガリーの窮状につけこみ、西ハンガリーのモション、ショプロン、ヴァスヴァールを請求してハンガリーに侵攻した。一方モンゴル軍撤退により一旦滅亡の危機を免れたベーラ4世は、娘婿のハールィチ・ヴォルィーニ公子ロスチスラフ・ミハイロヴィチとともに軍勢を集め、ライタ川でオーストリア軍を迎撃した。戦闘自体はオーストリア軍が勝利したが、フリードリヒ2世が戦死してしまった。 その後、この戦いでバーデンベルク家が断絶したことにより、オーストリア・シュタイアーマルク両公国をめぐってアールパード朝ハンガリー王国とプシェミスル朝ボヘミア王国の間に戦争が勃発した。1260年のクレッセンブルンの戦いでボヘミア王オタカル2世がベーラ4世に勝利して両公国を獲得したが、1278年のマルヒフェルトの戦いでハプスブルク家・ハンガリー連合軍に敗れ戦死し、オーストリア・シュタイアーマルクはハプスブルク家のローマ王ルドルフ1世のものとなった。結局、ライタ川は1918年のハプスブルク帝国解体までオーストリア(ツィスライタニエン)とハンガリーの国境であり続けた。
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