オーストリアの庇護下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 14:10 UTC 版)
「マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス」の記事における「オーストリアの庇護下」の解説
フランス新政府とイギリスの関係が改善されると状況は一変し、シャルル10世はオーストリア皇帝フランツ1世(かつての神聖ローマ皇帝フランツ2世)を頼りプラハへ移ることに決定した。その際、マリー・カロリーヌは同行を拒み、シャルル10世はしぶしぶ「フランスに帰国した際、息子が未成年の場合はベリー公妃を摂政とする」と宣言し、署名した。その直後、マリー・カロリーヌは姿を消し、ヨーロッパ各地を転々とした後、1832年4月にブルボン家支持者アルマサン公らとともに叛乱を起こして逮捕された。拘留中のマリー・カロリーヌが青年弁護士との間の子を妊娠していることとエットーレ・ルケージ・パッリ伯との秘密結婚が明らかにされ、嫁の不貞に怒ったシャルル10世はマリー・カロリーヌを絶縁し、マリー・テレーズが母親代わりにルイーズとアンリを養育することになった。 プラハではフラドシン城を用意してもらい、ここでシャルル10世らとヴェルサイユの伝統的儀礼を復活させた。彼女は刺繍をして静かに過ごし、その作品はオークションにかけて、収益は恵まれない者に寄付された。1836年にオーストリアの都合でモラヴィアのキルシュベルク城へ、その後ゴリツィアのグラッファンベルク城へ転居を重ねた。ここで義父シャルル10世を1836年に、夫アングレーム公を1844年に看取った後、今度はウィーン郊外のフロースドルフ城へ移らされる。ここでは散歩に読書、刺繍、祈りを日課として静かに暮らした。作品はまたオークションで利益を生み、売上は貧しい者たちに寄付された。 マリー・テレーズは1851年10月19日、肺炎のため死亡した[要出典]。夫との間に子が無かったため、ルイ16世とマリー・アントワネットの血筋は途絶えることとなった。
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