オーストリアの継承問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 23:35 UTC 版)
「シュレージエン戦争」の記事における「オーストリアの継承問題」の解説
時代を下って1740年5月、即位したばかりのプロイセン王フリードリヒ2世は再びシュレージエンの領有を目指した。彼はシュレージエンへの請求が正当であると考え、また父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世からよく訓練された大軍であるプロイセン陸軍(英語版)を継承し、国庫の状態も健全だった。一方、オーストリアは財政状況が悪く、軍も直近のオーストリア・ロシア・トルコ戦争で不名誉な敗北を喫したにもかかわらず増強も改革もなされなかった。ヨーロッパの情勢もプロイセンの先制攻撃に有利だった。グレートブリテン王国とフランス王国はお互いに注目していてヨーロッパ全体を見ておらず、ロシア帝国とスウェーデン王国はハット党戦争で戦っており、バイエルン選帝侯領とザクセン選帝侯領はオーストリアへの継承権を主張できる立場にあるため攻撃に参加する可能性があった。ホーエンツォレルン家による請求権は法律上の開戦事由になったが、実際にはレアルポリティークと地政戦略上の理由が戦争勃発の主因である。 フリードリヒ2世にとって機会となったのは、1740年10月に神聖ローマ皇帝カール6世が男子継承者を残さずに死去したときだった。1713年の国事詔書により、カール6世は長女マリア・テレジアを継承者に定め、マリア・テレジアはカール6世に伴いオーストリアの統治者になり、ハプスブルク帝国のうちボヘミアとハンガリーの領地も継承した。国事詔書はカール6世の存命中にはほとんどの帝国諸侯からの承認を受けたが、多くの諸侯はカール6世の死後すぐに承認を拒否した。フリードリヒ2世はこれを好機とみて、ヴォルテールに「ヨーロッパの古い政治体制を一新する時が来ました」と書き送った。 フリードリヒ2世はシュレージエンが世襲領地ではなく、帝国の王冠領の一部としてハプスブルク家が所有するにすぎないので、国事詔書はシュレージエンには適用されないとした。さらに、父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が国事詔書の承認に同意したとき、その見返りとしてラインラントのユーリヒ公国とベルク公国への請求の支持をとりつけたが、オーストリアがその義務を果たさなかったとした。 一方、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトとザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世はそれぞれカール6世の兄ヨーゼフ1世の娘と結婚しており、この結婚をハプスブルク家領への請求の根拠とした。中でもフリードリヒ・アウグスト2世はアウグスト3世としてポーランド・リトアニア共和国の国王にも就任しており、シュレージエンを領有することで自領であるザクセンとポーランドが一続きになる(同時にブランデンブルクをほぼ包囲する形になる)。この最悪の結果を防ぐためにも、プロイセンは急いで行動を起こさなければならなかった。
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オーストリアの継承問題
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「第一次シュレージエン戦争」の記事における「オーストリアの継承問題」の解説
時代を下って1740年5月、即位したばかりのプロイセン王フリードリヒ2世は再びシュレージエンの領有を目指した。彼はシュレージエンへの請求が正当であると考え、また父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世からよく訓練された大軍であるプロイセン陸軍(英語版)を継承し、国庫の状態も健全だった。一方、オーストリアは財政状況が悪く、軍も直近のオーストリア・ロシア・トルコ戦争で不名誉な敗北を喫したにもかかわらず増強も改革もなされなかった。ヨーロッパの情勢もプロイセンの先制攻撃に有利だった。グレートブリテン王国とフランス王国はお互いに注目していてヨーロッパ全体を見ておらず、ロシア帝国とスウェーデン王国はハット党戦争で戦っており、バイエルン選帝侯領とザクセン選帝侯領はオーストリアへの継承権を主張できる立場にあるため攻撃に参加する可能性があった。ホーエンツォレルン家による請求権は法律上の開戦事由になったが、実際にはレアルポリティークと地政戦略上の理由が戦争勃発の主因である。 フリードリヒ2世にとって機会となったのは、1740年10月に神聖ローマ皇帝カール6世が男子継承者を残さずに死去したときだった。1713年の国事詔書により、カール6世は長女マリア・テレジアを継承者に定め、マリア・テレジアはカール6世に伴いオーストリアの統治者になり、ハプスブルク帝国のうちボヘミアとハンガリーの領地も継承した。国事詔書はカール6世の存命中にはほとんどの帝国諸侯からの承認を受けたが、多くの諸侯はカール6世の死後すぐに承認を拒否した。フリードリヒ2世はこれを好機とみて、ヴォルテールに「ヨーロッパの古い政治体制を一新する時が来ました」と書き送った。 フリードリヒ2世はシュレージエンが世襲領地ではなく、帝国の王冠領の一部としてハプスブルク家が所有するにすぎないので、国事詔書はシュレージエンには適用されないとした。さらに、父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が国事詔書の承認に同意したとき、その見返りとしてラインラントのユーリヒ公国とベルク公国への請求の支持をとりつけたが、オーストリアがその義務を果たさなかったとした。 一方、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトとザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世はそれぞれカール6世の兄ヨーゼフ1世の娘と結婚しており、この結婚をハプスブルク家領への請求の根拠とした。中でもフリードリヒ・アウグスト2世はアウグスト3世としてポーランド・リトアニア共和国の国王にも就任しており、シュレージエンを領有することで自領であるザクセンとポーランドが一続きになる(同時にブランデンブルクをほぼ包囲する形になる)。この最悪の結果を防ぐためにも、プロイセンは急いで行動を起こさなければならなかった。
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