オーストリアの計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 11:27 UTC 版)
マック将軍はオーストリアの安全保障がフランス革命戦争中に多くの戦いが行われてきた南ドイツのシュヴァルツヴァルト一帯の隙間を埋める事にかかっていると考えていた。ドイツ中部では何の軍事的行動も起きないと考えたマックは、ウルムを防衛戦略の中心に据えることにした。そのためには、ミハイル・クトゥーゾフ率いるロシア軍が到着してナポレオンに対する勝算が増すまで、フランス軍を食い止める必要があった。要塞化されたミヒェルスベルクの高地に守られているため、ウルムは事実上外からの攻撃によって陥落できない都市であるという印象をマックは持っていた。 致命的な事に、宮廷評議会はハプスブルク家にとっての主戦場を北イタリアとすることを決定した。95,000名の軍を率いることとなったカール大公は、アディジェ川を渡り、マントヴァ、ペスキエーラ・デル・ガルダ、ミラノを主な目標とした。ウルムのオーストリア軍は72,000名程で構成されていた。建前上はフェルディナント大公によってオーストリア軍は指揮されていたが、実際の権限はマックが保有していた。オーストリアの戦略ではヨハン大公の23,000名の軍に、ティロル(英語版)を防衛し、カール大公の軍とフェルディナントの軍との連携を保つことを求めた。またオーストリアは、ポンメルンのスウェーデン軍とナポリのイギリス軍を支援するために独立した軍団を送ったが、それらはフランス軍を混乱させ、兵力を転用させることを目的としていたものであった。
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