オーストリアへの帰還、皇帝即位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/13 03:09 UTC 版)
「カール6世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「オーストリアへの帰還、皇帝即位」の解説
1711年、兄の皇帝ヨーゼフ1世が崩御すると情況が大きく変わった。兄には息子がなく、皇帝選出のためドイツへ戻ったカールがカール6世として帝位を継ぐことになったのである。こうなると、もしカール6世がスペイン王位も継承すれば、かつてのカール5世(スペイン王カルロス1世)のような欧州の広大な領土に君臨する強大な君主の出現となり、やはり勢力均衡が崩れてしまうことになる。 そこで1713年、イギリスなどはフランスとスペインが併合されないことを条件として、フェリペ5世の即位を認めることにしてユトレヒト条約を結んだ。こうしてカールはスペイン王位を断念せざるを得なくなり、1714年にオーストリアもフランス・スペインとラシュタット条約を締結した。残されたバルセロナは1714年にフェリペ5世に落とされている(第3次バルセロナ包囲戦)。 兄ヨーゼフ1世には、男子がいなかった。スペイン継承戦争と絡み、1703年、兄弟の間で相続協定が結ばれている。カールのスペイン王位継承が実現し、オーストリア(ヨーゼフ系)とスペイン(カール系)いずれの系統で男系が断絶した場合、もう一方の男系が相続することだった。さらに、父レオポルド1世は、1705年、カールのスペイン王位継承が実現しない場合を見越し、ヨーゼフ同意の上で、チロル伯領を初めとする西独方面の所領を、カールに一括相続させる協定を結ばせた。この時点で、兄ヨーゼフに男児はなかった。
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