オーストリアを巡る争い、ガリツィアへの干渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 01:24 UTC 版)
「ベーラ4世 (ハンガリー王)」の記事における「オーストリアを巡る争い、ガリツィアへの干渉」の解説
「ガーリチ・ヴォルィーニ公国統一戦争」も参照 1242年に、ハンガリーは再建した軍隊を派兵してオーストリア公フリードリヒ2世と交戦する。ハンガリーはオーストリアに占領されたショプロンとケーセグ(英語版)を奪還し、ベーラはモンゴルの侵入中にオーストリアに割譲した3州の返還を要求した。 1244年6月30日にハンガリーとヴェネツィアの間に協定が結ばれ、ハンガリーはザダル(ザラ)の主権をヴェネツィアに譲渡、ダルマチアの都市からあがった税収の3分の1を確保した。翌1245年にベーラは義理の息子ロスチスラフ・ミハイロヴィチに軍事的な援助を送り、ガリツィア公国の公子ダニーロとの争いを助けるが、ロスチスラフはダニーロによって打ち破られる。同年、ハンガリーは王国西側の併合を渇望するオーストリア公フリードリヒから再び攻撃を受ける。ライタ川の戦いでハンガリー軍は敗北するが、この時に勝利を収めたフリードリヒも戦死した。 1249年にベーラはバーン(太守、大貴族)のSzörényが聖ヨハネ騎士団に入団することを認めるが、この時期にはモンゴル軍が再びヨーロッパに侵攻する噂が広まっていた。同年、再びロスチスラフの元に援軍を送るが、サン川の戦いでロスチスラフとハンガリーの連合軍は敗北、ガリツィアとの和平の締結に至った。1250年にズヴォレンで両国は会談し、ハンガリーはダニーロとロスチスラフの抗争に介入しないことを約束した。 フリードリヒの落命によってバーベンベルク家の男子は断絶しており、周辺の国々は彼が統治していたオーストリアとスティリアの統治権を巡って争っていた。バーベンベルク家の領地の争奪戦において、1252年にハンガリーはオーストリア公フリードリヒの姪ゲルトルード(Gertrude of Austria)とガリツィアのダニーロの息子ロマンとの結婚を取りまとめた。同年にベーラは軍を率いてウィーン盆地を占領するが、フリードリヒの義兄であるボヘミア王オタカル2世もバーベンベルク家の領地を要求した。ベーラはオタカルの支配下にあるモラヴィアを攻撃するが、モラヴィアの主要都市であるオロモウツの占領には至らなかった。そのためベーラはローマ教会を介してボヘミアとの和平を試み、プレスブルクでのオタカルとの協議の結果、二国の間に講和が成立する。教皇の調停により、1254年のブダの和議でフリードリヒの遺領のうちスティリア公領がハンガリーの支配下に入った。
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