グレートブリテン王国との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/17 14:09 UTC 版)
「ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領」の記事における「グレートブリテン王国との関係」の解説
1714年、ゲオルク・ルートヴィヒがグレートブリテン王に即位したため、選帝侯領とグレートブリテン王国が同君連合を組んだ。1719年に元スウェーデン領のブレーメン(英語版)とフェルデン(英語版)を実質的に購入したことにより、選帝侯のドイツにおける領土も拡大した。 ゲオルク・ルートヴィヒは1727年に死去、息子のゲオルク・アウグストが後を継いだ。1728年、皇帝カール6世はゲオルク・アウグストにザクセン=ラウエンブルクを正式に与える代わりに、封建制での義務を課した。 ゲオルク・アウグストは1731年にはハーデルン(英語版)も獲得した。ハーデルンはザクセン=ラウエンブルクの飛地であり(1689年以降は帝国により保管されていた)、ゲオルク・アウグストはハーデルンを隣のブレーメン=フェルデンに併合した。しかしカール6世の許可を得ることは難航し、ブレーメン公国とフェルデン侯国のゲオルク2世への割譲の承認は1733年までずれ込んだ。ゲオルク・アウグストは1728年と1733年の承認で400年間の伝統である等族の維持を誓った。 カール6世死後のオーストリアの継承問題では、フランスの勢力の伸長を危惧しゲオルク・アウグストはマリア・テレジアを支持した。同時にフランスからの選帝侯領の防衛のためにヘッセンやデンマークからの傭兵をハノーファーに駐留させている。しかし、オーストリア継承戦争開戦後は隣国プロイセンを刺激するのを恐れ、マリア・テレジアにシュレージェンを諦めフリードリヒ2世との和平を結ぶことを奨め、1742年の皇帝選挙ではバイエルン公カール・アルブレヒトに投票した。1743年にはゲオルク・アウグストは自らハノーファー・イギリス・オーストリア・オランダ・ヘッセンの連合軍を率いてデッティンゲンの戦いでフランス軍と戦い、勝利している。 これらのオーストリア継承戦争中のゲオルク・アウグストの行動は、ハノーファーの安定のみを考えイギリスの国益を軽視しているとして、イギリスの市民達の不興を買った。 選帝侯領の首都ハノーファーにおいて、ハノーファー枢密院(英語版)(選帝侯領の政府)は選帝侯が同君連合で治めていた帝国等族(英語版)(ブレーメン=フェルデン、ハーデルン、ラウエンブルク、ベントハイム(英語版))を統治するために内閣を組織したが、選帝侯は統治したほとんどの期間にイギリスに滞在した。選帝侯との直接的な連絡はロンドンのセント・ジェームズ宮殿にあるドイツ事務局(英語版)を通して行われた。
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