グレートブリテンの王位継承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 15:24 UTC 版)
「ジョージ1世 (イギリス王)」の記事における「グレートブリテンの王位継承」の解説
イングランドもスコットランドもアンを女王として承認したが、ハノーファー選帝侯妃ゾフィーを推定相続人として承認したのはイングランド議会(英語版)だけであり、スコットランド議会(英語版)はスコットランド王位の継承権問題を正式には解決していなかった。1703年、スコットランド議会は、イングランドがスコットランド商人にイングランドとその植民地における自由貿易を許可しない限り、アン女王のスコットランド王位継承者にイングランド王位継承者と同じ人物を選ばないことを決議した。アン女王ははじめ裁可を与えなかったが、翌年には折れて裁可を与え、法案は1704年安全保障法(英語版)として成立した。これに対し、イングランド議会はスコットランド議会がハノーファー家によるスコットランド王位継承を承認しない場合、イングランドとスコットランドの貿易を制限し、スコットランド経済に打撃を与えることを決議した。やがて両議会は1707年に合同法でイングランドとスコットランドを1つの政治実体に合併し、グレートブリテン王国を成立させるとともに、1701年王位継承法に基づく王位継承に合意した。この合併により、18世紀のヨーロッパにおける最大の自由貿易圏が成立した。 ホイッグ党の政治家は議会が王位継承を決定する権利を持ち、それをアン女王の最近親のプロテスタントに与えることができたと考えた。一方多くのトーリー党政治家はステュアート家のカトリックがより近親だったためその継承権を認めるべきと考えた。1710年、ジョージは王位継承権がステュアート家から剥奪されたが彼が王位継承権を保持したとして、イギリスの王位を継承することを宣言した。「この宣言の目的はホイッグの議会が王国を彼に与えたとする主張を潰す[とともに][...]トーリーには王位の簒奪者ではなかったと納得させた」。 ジョージの母ゾフィーは1714年5月28日(ユリウス暦。グレゴリオ暦では6月8日)に83歳で死去した。彼女は雨避けのために走った後ヘレンハウゼン庭園で倒れた。アン女王の健康も悪化していたためイギリスの政治家は権力を奪い合い、アンの推定相続人になったジョージはすぐさま摂政委員会の委員を再編した。アン女王は卒中をおこして話すことができなくなり、1714年8月1日に死去した。摂政のリストが公表され、摂政たちは宣誓し、ジョージはジョージ1世としてグレートブリテン王およびアイルランド王として即位した。しかし、逆風のためにデン・ハーグで海峡通過を待たざるを得ず、9月18日にようやくイギリス入りした。ジョージは10月20日にウェストミンスター寺院で戴冠した。イングランドでは20か所以上の町で戴冠式暴動(英語版)と呼ばれた暴動がおこった。 ジョージ1世は1714年以降、主にグレートブリテン島に住んだが、ハノーファーへは1716年、1719年、1720年、1723年、1725年、1727年と数年ごとに帰国、合計ではイギリスでの治世の約5分の1をドイツで過ごした。王位継承法には議会の許可なくイギリスを出国することを禁じる条項があったが、1716年にハノーファー朝支持ムードのなかで全会一致で廃止された。1回目の帰国を除いて、ジョージ1世の不在時に、権力はプリンス・オブ・ウェールズのジョージ・オーガスタスではなく摂政委員会に委ねられた。
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