フランス革命と1801年協約
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「コンコルダート」の記事における「フランス革命と1801年協約」の解説
「聖職者民事基本法」も参照 フランス革命で国家が世俗化し、キリスト教が非国教となると、教会の財産が没収されたがその保障として聖職者に給与が払われるようになった。具体的には、1790年成立の聖職者民事基本法(僧族民事基本法)であって、この法律の内容は、フランス国内のカトリック教会を国家の管理下に置くものであった。司教区の行政的再編成、宗教的秩序の廃止、戸籍抄本の民間委譲、聖職者の叙任・給与などについて定め、これにより聖職者は公務員の扱いとなり、教会ではなくて、人民によって選任される立場になった。また、制限選挙などを定めた1791年憲法を全力で維持すること等の宣誓を義務としたため、聖職者の大多数が聖書以外に誓いを立てることを拒否し、革命と宗教との対立に発展した。敬虔なカトリック教徒であった国王ルイ16世は困惑したが、王党派聖職者の助言を受けて裁可に同意した。ところがローマ教皇ピウス6世は公にこれを強く批判し、宣誓者を批判して異端宣告することすら示唆したため、波紋が広がり、宣誓拒否聖職者(宣誓忌避聖職者)と立憲派聖職者の対立は一般の信徒も巻き込んで深刻の度合いを増した。信仰の根強い地方では、宣誓拒否聖職者が王党派と協力して農民の反乱を扇動したため、ヴァンデの反乱の原因の一つとなり、反革命運動の根源ともなった。聖職者民事基本法は、1794年に廃止されたが、ローマ・カトリック教会とのフランスとの敵対、およびフランス・カトリック教会内の分裂は1801年の協約までつづいた。 1799年、ローマ共和国が成立した事件に関して、ピウス6世はフランスの捕虜となり、ヴァランスで死去したが、ブリュメールのクーデターで第一統領となったナポレオンはその正葬を許可し、新教皇ピウス7世と秘密交渉を開始した。これが1801年7月16日のコンコルダートであり、このなかで教皇はナポレオンの統領政府を正式に承認し、没収教会財産の返還要求をしないことに同意した。叙任権は教皇が持つが、その任免の際に聖職者のフランス国家への忠誠宣誓を必須とし、人選についても第一統領が指名大権を持った。教区の変更の線引きは教会と国家が協議して決めるということになった。聖職者の公定俸給は国が支払うことになり、聖職者はやはり実質的には公務員のようになった。カトリックは国教に限りなく近い「フランス人の最大多数の宗教」という立場になった。妥協の産物であったため、これらは聖職階位制を復活させ、教皇権至上主義のつけ込む隙を与える方向で、聖職者民事基本法を修正したような内容であった。すなわち、一方で教会の特権の排除を目指す国家の絶対的支配権の主張に対して教会側がとる法的手段ともなったのである。 フランスの教会はカトリック教会の組織として再構築されることになり、民事基本法から派生した混乱と、立憲派聖職者と宣誓拒否聖職者の分裂は終結した。一方で教皇と皇帝との関係は、ナポレオンの離婚問題と大陸封鎖令に関連して再びこじれた。1808年に皇帝は教皇領を占領して翌年に併合し、対してピウス7世はナポレオンを破門してフランスに幽閉された。その後も叙任を拒んだ教皇とナポレオンとの対立はさらに長く続き、ロシア遠征の後の1813年1月に再びコンコルダート(フォンテーヌブローのコンコルダート)が締結されるが、破棄され、皇帝が失脚してセント・ヘレナ島に追放されるまで個人的な和解は成立しなかった。
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