フランス革命とナポレオン戦争の間の発展
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「帆船時代の海戦戦術」の記事における「フランス革命とナポレオン戦争の間の発展」の解説
1793年のフランス革命戦争の勃発時には、技術革新と、革命によるフランス艦隊の組織的混乱とが組合わさり、イギリス艦隊はフランスやスペインの海軍に対し明確な優位を獲得した。イギリスはどの敵国よりもはるかに大きな貿易を行っており、軍艦の水兵に転用できる予備兵力としてのプロの水夫を数多く保有していた。18世紀を通じてフランスと特にスペインの艦隊は、水夫を徴用することが難しくなっており、海に不慣れな陸軍の兵士や陸上生活者で穴埋めをせざるを得なかった。 イギリスの船はもともと熟練した船乗りの比率が高かっただけでなく、海上封鎖や船団の護衛などで長期間の乗り組みがあったために、艦長たちは乗組員の訓練をする機会に恵まれていた。イギリスの砲手はフランスやスペインの砲手よりも高い命中率を誇っており、フランスやスペインは犠牲者を多く出していた。優れた水夫、素早い砲術、そして高い乗組員の士気、これらは如何に敵国兵が勇敢でもイギリスが優位にたてた要因である。 リチャード・ハウのような優れたイギリスの提督は、決着の付きやすい乱戦に持ち込むために、いかに敵の戦列を打ち破るかに心血を注いだ。1794年の栄光の6月1日の海戦では、ハウは指揮下の艦隊に、敵戦列をすり抜けるよう命令し、フランス艦隊を風下から攻撃することでその退路を封じた。これにより、個艦の優位性を存分に発揮し、自由な行動のできる乱戦に持ち込んだ。 若干の休戦期間を挟みつつ1793年から1815年まで続いた戦乱で、イギリスの提督たち、ジョン・ジャーヴィスやアダム・ダンカンそして特にホレーショ・ネルソンは段々と大胆な戦法をとるようになり、サン・ビセンテ岬の海戦、キャンパーダウンの海戦、トラファルガーの海戦で望み通りの乱戦に持ち込むことができた。最も急進的な戦術はトラファルガーでネルソンが取った真直ぐに戦列に突入するやり方である。このやり方では、接近中は自艦への砲火に対して反撃することができないが、その代わり、イギリス艦がフランス・スペインの戦列を通り過ぎる時に破壊的な集中砲火を浴びせることができた。 これらのイギリス提督たちの戦術は軽率であり、もっと熟練した敵に対しては失敗するだろうと言われてきた。しかしこのような批判は、「特定の攻撃を絶対確実にする魔法のような方法があるはずだ」と考える人間のものである。1793年から1815年にいたる大戦争におけるイギリスの提督たちの戦術が、その戦術自身の中にそのような要因を内在していたのでないことは、1811年のリッサ海戦によって十分に証明されている。実際のところ、これらの戦術が行えたのは提督たちの艦隊の質に対する信頼が揺るぎないものだったからである。敵の戦列に突っ込むとしてもその距離が950ヤード以下になれば、同時に攻撃を受ける敵艦は3隻に過ぎなかった。なぜなら砲をそれ以上近い距離に集中させるような訓練はできなかったからである。一方、砲の有効射程は1,000ヤード強に過ぎなかったから、敵の戦列に到達するまでにマストを失って停止してしまう確率は、実はそれほど大きいものではなかった。
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