フランス革命からピータールーの虐殺まで
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「1832年改革法」の記事における「フランス革命からピータールーの虐殺まで」の解説
1789年にフランス革命が勃発すると、イングランドの政治家の多くはいかなる政治改革にも頑なに反対するようになり、議会改革は支持を失った。このような反動の中でも改革を目指す急進主義組織が次々と生まれ、1792年には第8代ローダーデイル伯爵ジェームズ・メイトランド(英語版)やチャールズ・グレイらホイッグ党の庶民院議員28名が人民の友協会(英語版)を結成して議会改革を推進、1793年にはグレイが人民の友協会からの請願を庶民院に提出、制度の悪用(英語版)を説明して改革を要求した。グレイは具体的な改革案を提出せず、庶民院が改善案を研究するという動議を提出したにすぎなかったが、庶民院はフランス革命への憎悪もあり、200票近くの大差で動議を否決した。グレイは1797年に再び動議を提出したが、やはり150票以上の大差で否決された。 人民の友協会のほかにもハムデン・クラブ(英語版)(この名称はイングランド内戦期の政治家で反国王派のジョン・ハムデンに由来する)やロンドン通信協会(英語版)(主に労働者や職人が加入した)といった組織が設立されたが、これらの組織が支持した改革は普通選挙実施などさらに急進的であり、議会では人民の友協会と比べても支持が少なかった。たとえば、ロンドンのハムデン・クラブ会長である庶民院議員サー・フランシス・バーデットが普通選挙実施、選挙区面積均一化、秘密投票を掲げた動議を提出したとき、バーデット自身以外ではコクラン卿トマス・コクランしか支持しなかった。 改革は一時的に挫折したものの、世論からの圧力は依然として強く、1819年にはバーミンガムで改革を支持する大規模な集会が行われた。バーミンガムはバラ選挙区ではなく、(カウンティ選挙区を除いて)庶民院議員を選出する権利がなかったが、集会に参加した者はサー・チャールズ・ウーズレー(英語版)をバーミンガムの「代議士」(legislatorial representative)に選出した。マンチェスターもバーミンガムにならって立法代理(legislatorial attorney)を選出しようと集会を行い、2万から6万人が参加したが、政府から解散を命じられた。集会が解散を拒否すると、マンチェスターの義勇騎兵団(yeomanry)が武力で集会を弾圧、11人が殺害され、数百人が負傷するという事件が起こった。これがピータールーの虐殺である。政府はさらなる政治煽動を防ぐために治安六法を制定、うち煽動集会禁止法(英語版)により州長官または治安判事の許可がなく、かつ50人以上が参加する政治集会が禁じられた。
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