フランス革命からブルボン王制復古期
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「ギャルド・スイス」の記事における「フランス革命からブルボン王制復古期」の解説
フランス革命が起こると、フランス人衛兵隊は民衆側について1789年の革命的事件に参加した。その後彼らはパリの国民衛兵に配属された。メゾン・ミリテール・デュ・ロワは1791年に廃止されたが、例外としてスイス衛兵隊が残された。スイス衛兵の歴史上最も有名なエピソードは、1792年8月10日の日中に起きた、パリ中心部テュイルリー宮殿の防衛(8月10日事件)である。当日、少数の貴族と武装の不十分なわずかな使用人、国民衛兵のフィーユ・サン・トマ大隊、退役した元将校たちのいる宮殿が、950人のスイス衛兵たちによって守られていた。数日前にノルマンディーの穀物輸送隊を護衛した300人の衛兵中隊だけが兵舎にとどまっていた。衝突が起こる前、王が立法議会に避難するため脱出すると、彼らは主のいないテュイルリー宮殿を守ることとなった。 スイス衛兵隊の本隊はテュイルリー宮殿を横切って退却し、庭園から退いて後方の宮殿建物へ向かった。この時点で彼らは劣勢であり、中央の噴水の近くで小集団に分かれて散り散りになった。宮殿内に残ったスイス衛兵たちは、群衆と対決できない使用人や廷臣たちと一緒に、捕えられ殺害された。テュイルリーにいた950人のスイス衛兵たちのうち約600人は、ルイ16世が停戦命令と武装解除命令を出した後、戦死したり、攻撃を迎え撃とうとして死んだ。約60人がパリのオテル・ド・ヴィル(市庁舎)で捕虜となり、そこで虐殺された。残りの者は負傷して監獄で死ぬか、続いて発生した九月虐殺で命を落とした。 100人の衛兵が生き残った。テュイルリー宮殿襲撃の最中に殺害されたスイス人衛兵たちは、パリの贖罪礼拝堂に埋葬された。テュイルリーにおけるスイス衛兵隊の上級司令官シャルル・レオドガル・バックマン男爵は身元が確認されたが、彼は赤い軍服を着たまま9月にギロチンの犠牲となった。2人のスイス人将校が生き残り、ただちにナポレオン軍の上級将校とされた。 4つの歩兵連隊が、ナポレオン・ボナパルト、およびスペイン、ロシアにおいて雇用された。この時期のスイス衛兵隊上級大将が、のちのヴァグラム公およびヌーシャテル公ルイ=アレクサンドル・ベルティエ、そしてのちのモンテベロ公ジャン・ランヌである。 王政復古時代、ブルボン家はスイス人軍を採用した。1815年から1830年の王室衛兵隊に含まれる8つの歩兵連隊のうち2つはスイス人連隊であった。これはかつてのスイス衛兵隊の継承者とみなされる。スイス衛兵隊の上級大将は、シャルル10世の孫息子、ボルドー公アンリ・ダルトワであった。 七月革命時に再びテュイルリー宮殿が襲撃されると、再びの虐殺を恐れてスイス人衛兵隊は投入されなかった。これらの隊は1830年8月11日、完全に廃止された。 1832年、スイス連隊の退役軍人たちは別の連隊を編成した。アルジェリアに派遣されたフランス外人部隊のオーエンローエ連隊である。
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