フランス革命とハイチ革命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 02:19 UTC 版)
「サン=ドマング」の記事における「フランス革命とハイチ革命」の解説
1789年夏、フランス革命の勃発がサン=ドマング植民地の転機となった。フランス人植民者が革命政府の新法がどのようにサン=ドマングに適用されるのか論争している間に、1790年、ムラートなどの有色自由人らが自分達もまたフランス人権宣言の下にあるフランス市民であると主張し内戦を始めた。さらに1791年8月22日、北部カプ=フランセ近くの森で黒人奴隷達が主人達に対する反乱であるハイチ革命を開始した。ブードゥー教の儀式により革命の開始が宣言され、ブードゥーの僧侶であるデュティ・ブークマン(英語版)(Dutty Boukman)が動員令を発し、数時間のうちに北部のプランテーションは相次いで戦火に飲み込まれた。9月、ブークマンは逮捕され処刑されたが、それまでに反乱は植民地全土に拡大し、多くの白人植民者が殺害された。追い詰められた白人達はムラート勢力と組んで反撃し、互いに多くの死者を出す戦いとなった。 1792年、サン=ドマングを安定化し、国民公会が認めたばかりの自由有色人種の社会的平等を徹底させ、植民地の支配を維持するため、革命政府の立法議会よりレジェ=フェリシテ・ソントナ(英語版)(Léger-Félicité Sonthonax)が使節として送り込まれた。 黒人奴隷の反乱は植民者やムラート、本国軍により抑えられた状態になったが、イスパニョーラ島東部からのスペイン軍の侵入により情勢は変化した。黒人奴隷反乱軍を味方につけたスペイン軍が迫り、白人植民者の中にも反革命をかかげイギリスなどと組んで革命政府軍に敵対する動きが出る中、ソントナは黒人を味方にする必要に迫られた。1793年8月29日、ソントナは北部地域の奴隷達に、きわめて限定されたものではあるが自由を宣言するという思い切った手に出た。9月と10月には植民地全域で奴隷解放が宣言された。1794年2月4日、国民公会はこの行為を認め、全フランス植民地に対し同様の措置を適用した。 黒人奴隷達は即座にはソントナの宣言を信用せず、白人植民者たちは奴隷解放に反発するムラートなど自由有色人とともにイギリスの支援でソントナ率いる革命政府軍と戦い続けた。スペイン側に転じていた黒人奴隷の指導者、トゥーサン・ルーヴェルチュール(フランソワ・ドミニク・トゥーサン)は奴隷解放宣言がフランス本国から届いた後、他の黒人指導者たちから離れ、1794年5月に革命政府軍の味方となった。ソントナは1796年本国の政変で解任されたが、もと奴隷だった者達が武器を取る流れは変わらなかった。イギリスはこの戦乱を契機に、カリブ有数の富を誇ったサン=ドマングに全面的な侵略を行ったが、トゥーサン・ルーヴェルチュール、ジャン=ジャック・デサリーヌ、アンリ・クリストフのもと集まった黒人反乱軍は強力であった。イギリス軍は撃退され、1798年にはトゥーサン・ルーヴェルチュールが事実上の支配者の地位についた。しかし彼は植民地の全面独立や奴隷制を利用していた白人植民者への報復措置などは考えてはいなかった。
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