フランス革命と政教分離
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 01:10 UTC 版)
「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「フランス革命と政教分離」の解説
アンシャン・レジーム(「旧体制」)におけるカトリック教会は、国教としてフランスの王権と一体化しており、文化の面でも行政の面でもブルボン朝による絶対王政を支えていた。フランス全土に網の目のように張り巡らされた教区教会は、1667年のルイ法典(フランス語版)(民事王令)以降、教区司祭のもとで洗礼証書・婚姻証書・埋葬証書の認証という形式によって戸籍業務を一手に担い、教区内住民の生誕、結婚、死や葬送に関する一切の記録を納めていた。王から発せられる命令も、ミサの祭壇から教区の人々に告知された。また、教会組織は民衆向けの医療、福祉、教育などの機能も果たしており、人々の日常生活に深く入り込んで王政による臣民統合を基礎づけるものとなっていた。一方、カトリック教会は教区民の助言者であると同時に、告解やミサを通じて信者の生活規範を点検する道徳統制者でもあるうえ、常に信者本人や家族に対して日々の信仰生活のありようを問い、その冠婚葬祭に際して宗教的な証しを求めた。プロテスタントの信徒はといえばカトリック教会の台帳には登録されなかったため、たとえば結婚については正式なものとは認められず、したがって正式な夫婦でない男女から生まれた子供たちも社会的には私生児として扱われたほか、洗礼証書(現代でいう出生証書)のない死者の埋葬にはしばしば大きな困難がともなった。「不法に」ではなくいわば「合法的に」差別されていたプロテスタントやユダヤ教徒の状態に変化の兆しがみられたのは、国王ルイ16世の名においてプロテスタント諸派に信仰の自由と戸籍が与えられた1787年のことであり、ここにみられる「宗教の相対化」は後述するフランス革命の所産ではなく「啓蒙の世紀」がつちかったものであったといえる。
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