フランス革命に対するイギリスの反応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/10 14:24 UTC 版)
「バーミンガム暴動 (1791年)」の記事における「フランス革命に対するイギリスの反応」の解説
イギリス国内のフランス革命をめぐる論争 (Revolution Controversy) は1789年から1795年まで続いた。当初、英仏どちらの論陣も、フランスは100年前のイギリスでの名誉革命と同じ道を辿る (すなわち絶対王政がより民主的な統治形態に変わる) だろうと考えており、1789年のバスティーユ襲撃は多くのイギリス国民に好意的に受け止められていた。また、イギリスでも選挙権が拡張されたり、議会の憲法上の区分の再配置によっていわゆる腐敗選挙区がなくなるなど、さらなる政治体制の変革が起こるだろうというのが、フランス革命支持者らの展望であった。 一方、保守論陣のエドマンド・バークは『フランス革命への省察』 (Reflections on the Revolution in France (1790)) でフランスの貴族側を支持し、彼自身が所属していたホイッグ党のリベラル派閥の他の議員らと対立することになった。これを契機に革命をめぐる議論が過熱した。バークはかつてアメリカ入植者らの本国への強い反発に対して支持を表明していたため、フランス革命に対する彼の見解は国内で波紋を呼んだ。バークが貴族政、君主制、イギリス国教会を擁護したのに対し、チャールズ・ジェームズ・フォックス (Charles James Fox) らのリベラル派は革命、および個人の自由、市民道徳、宗教的寛容の実行のためのプログラムを支持し、ウィリアム・ゴドウィン、トマス・ペイン、メアリー・ウルストンクラフトらの急進派はさらに共和主義 (republicanism) 、農業制社会主義、地主階級特権の廃止といったさらなる改革プログラムの必要性を訴えた。イギリスの歴史家Alfred Cobbanはこうして勃発した革命論争を「おそらくイギリス政治の諸原理を実際に議論した最後の論争」と評している。しかし 恐怖政治やナポレオン戦争開始の後には、フランス革命の大義を支持したり、改革がイギリスにも及ぶことを信じている人はごくわずかとなり、急進派と疑われる人々は役人や世間からの疑いの標的となった。 バーミンガム暴動の引き金となった諸々の出来事は、フランス王家の逃亡と逮捕 (ヴァレンヌ事件) から1ヶ月も経たないうちに起こったものであり、その時点ではフランス革命に対する当初の見通しがすでに暗くなってしまっていた。
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