フランス革命と晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 06:13 UTC 版)
「トマス・ペイン」の記事における「フランス革命と晩年」の解説
1785年には鉄橋を考案し、翌年には模型を完成させている。一方で同年、『政府・銀行・紙幣』を著して、銀行を擁護した。1787年5月からフランスに渡って学士院に自分の橋梁模型を宣伝し、9月から故郷のセットフォードで過ごし『ルビコン川における将来の予想』という小冊子を完成させ、イギリス首相ウィリアム・ピットに対仏戦の非を説いている。1787年12月から1789年秋までパリにいたアメリカ公使ジェファーソンと文通し、その年の暮れにラファイエット侯爵から陥落していたバスティーユ牢獄の鍵を手渡され、ワシントン大統領に届けるよう依頼され、この任を果たす。 エドマンド・バークの『フランス革命についての省察』を反駁するため、1791年と翌年にかけて『人間の権利』(Rights of Man)を出版し、1793年までイギリスで200万部を売りつくしたと試算される。『人間の権利』第2部で土地貴族を攻撃し世襲君主制への敵意を表明したためイギリス政府に追放され、かつ自著の仏訳を監修するためにパリに渡り、1791年10月にはフランスの市民権を与えられ国民公会によって新憲法の草案作成委員会に加えられた。その時の委員の顔ぶれには、ダントンやシェイエース、コンドルセが見られ、憲法草案の前文はペインとコンドルセが書いたといわれる。1793年1月15日に国民公会でルイ16世の処刑に反対する演説を行う。12月28日にジロンド党との共謀と敵性外国人という嫌疑により逮捕され、駐フランス公使ジェームズ・モンローの助力により翌年11月4日に釈放された。12月8日に再び国民公会に迎えられ、翌年1月3日にフランス公教育委員会により「この哲学者は人間の権利でもってイギリスの政治家のマキャベリズムに立ち向かったのであり、2冊の不滅の著書によって新旧両大陸の自由を聖別した」と顕彰された。この間、理神論を主張した著書『理性の時代』(The age of reason)を完成させている。1802年に再びアメリカに渡り、ジョン・アダムズをはじめとする連邦党と対立し、奴隷反対を説き、理神論を改めようとしなかったために、アメリカではほとんどの友人を失い、不遇のうちにニューヨークで没する。彼の遺体は無神論者との噂がたたって教会での埋葬を拒まれて、ロングアイランドの共同墓地に埋められた。1819年になって、イギリスのジャーナリストで愛国者のウィリアム・コベットが故国に改葬しようとしてペインの遺骨を持ち帰り、結局はイギリスでも埋葬が許されず、コベットの生きている間はその家に置かれたまま、彼の死とともに行方知らずとなったという。
※この「フランス革命と晩年」の解説は、「トマス・ペイン」の解説の一部です。
「フランス革命と晩年」を含む「トマス・ペイン」の記事については、「トマス・ペイン」の概要を参照ください。
- フランス革命と晩年のページへのリンク