フランス革命と帝国消滅
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「神聖ローマ帝国」の記事における「フランス革命と帝国消滅」の解説
詳細は「フランス革命戦争」および「帝国代表者会議主要決議」を参照 1789年にフランス革命が勃発した。この際、オーストリア政府は報道の自由を厳しく規制した。当初、諸外国は武力干渉を控えていたが、1791年にフランス王ルイ16世とマリー・アントワネットの国外逃亡失敗事件(ヴァレンヌ事件)が起こると、皇帝レオポルト2世とプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世はフランスにおける王権復旧を要求する宣言(ピルニッツ宣言)を発し、これに対してフランス革命政府は宣戦布告で応じた(フランス革命戦争)。レオポルト2世は開戦直前に死去しており、フランツ2世が皇帝に選出された。この頃、フランス革命の思想を持った人達に対して厳しい措置が取られるようになり、1794年夏には革命賛同者のグループが検挙され有罪となり、1795年1月には2人が絞首刑、他数名が長期刑の判決を受けている。 オーストリア=プロイセン軍はフランス軍に進撃を阻まれて反攻を受け、1795年までにフランス軍はオーストリア領ネーデルラントとライン川西岸を制圧し、プロイセンは戦争から脱落した。オーストリアは戦争を継続したが、イタリアでナポレオン・ボナパルトに敗れ(イタリア戦役)、1797年にカンポ・フォルミオ条約の締結を余儀なくされた。同条約により、オーストリアはヴェネチアを獲得したものの、ミラノの放棄とオーストリア領ネーデルラントの喪失を承認させられた。 1799年に第二次対仏大同盟が結ばれて戦争が再開したが、ブリュメールのクーデターで権力を掌握したナポレオンがアルプス越えを敢行してマレンゴの戦いでオーストリア軍を撃破し、戦争は1802年のリュネヴィルの和約により終結し、フランツ2世はフランスによるライン川西岸地域の併合を承認させられた。 リュネヴィルの和約でナポレオンはフランス併合地域の代替地をプロイセンその他の諸侯に提供するよう要求し、これを受けて帝国は1803年にレーゲンスブルク帝国議会の代表者会議を開催して帝国諸邦の再編成を決議した(帝国代表者会議主要決議:Reichsdeputationshauptschluss)。これによってマインツ大司教以外のすべての聖界諸侯領の俗界諸侯領への併合(世俗化 (en) )および小規模領邦国家と帝国都市の廃止と大諸侯領への編入(陪臣化)が進められ、西南ドイツに新たな幾つかの中規模国家が成立した。また、プロイセンは北西ドイツの領土を獲得している。 1804年5月18日、フランス共和国政府は元老院令を発して共和国を世襲皇帝に委ねると宣言し、ナポレオンはフランス皇帝(Empereur des Français)を称した(戴冠式は12月2日)。フランス皇帝は神聖ローマ皇帝やロシア皇帝と異なり、もはや古代ローマ帝国との理念・歴史的関連性を持たない皇帝である。これに対して、フランツ2世はハプスブルク家世襲領と皇帝の称号を守るべく、8月11日に神聖ローマ皇帝とは別のオーストリア皇帝(Kaiser von Österreich)を称した(オーストリア皇帝フランツ1世)。 1805年に第三次対仏大同盟戦争が始まった。オーストリア主力軍はウルムでナポレオンの迅速な機動により降伏し、フランス軍はウィーンを占領した。フランス軍は追撃を行い、アウステルリッツでフランツ2世とロシア皇帝アレクサンドル1世の率いるオーストリア=ロシア連合軍と会戦して勝利した(三帝会戦)。プレスブルクの和約でオーストリアはヴェネチア、チロルの割譲とバイエルン、ヴュルテンベルクの王国、バーデンの大公国への昇格を認めさせられる。 最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世(左)と退位宣言書(右) 中小帝国領邦はナポレオンを「守護者」とすることを決め、1806年7月にバイエルン、ヴュルテンベルクを初めとする帝国16領邦がマインツ大司教ダールベルクを首座大司教侯とするライン同盟を結成して帝国脱退を宣言した。 ここに至り、フランツ2世は8月6日にドイツ皇帝(神聖ローマ皇帝)退位と帝国の解散を宣言する。 朕はライン同盟の結成によって皇帝の権威と責務は消滅したものと確信するに至った。それ故に朕は帝国に対する全ての義務から解放されたと見なし、これにより、朕とドイツ帝国との関係は解消するものであるとここに宣言する。これに伴い、朕は帝国の法的指導者として選帝侯、諸侯そして等族その他全ての帝国の構成員、すなわち帝国最高法院そしてその他の帝国官吏の帝国法によって定められた義務を解除する。 — フランツ2世のドイツ皇帝退位宣言―1806年8月6日(全文は左記リンク) ハプスブルク家は神聖ローマ帝国の消滅後もオーストリア皇帝、ハンガリー王としてオーストリア=ハンガリー帝国を、第一次世界大戦の敗北により瓦解するまで統治し続けた。 ナポレオンの敗北により始まったウィーン体制により、1815年にオーストリア、プロイセンを含むドイツ諸邦39カ国によって構成されるドイツ連邦が成立した。ドイツ統一を巡るオーストリアとプロイセンの対立は19世紀後半まで続いたが、1866年の普墺戦争でのプロイセンの勝利によってドイツ連邦は解体され、翌1867年に新たにオーストリアと南ドイツ4カ国を除いた北ドイツ連邦が成立した。 オーストリアを除くドイツ諸邦が統一されるのは、普仏戦争でプロイセンと南北ドイツ諸邦がフランス帝国に勝利し、プロイセン王ヴィルヘルム1世がヴェルサイユ宮殿で皇帝に即位してドイツ帝国(Deutsches Kaiserreich)が成立する1871年1月18日のことである。
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