フランス革命と1958年の第五共和政憲法とは? わかりやすく解説

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フランス革命と1958年の第五共和政憲法

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 21:14 UTC 版)

ライシテ」の記事における「フランス革命と1958年の第五共和政憲法」の解説

ライシテ起源フランス革命 (1789-1799) にある。フランス革命では、共和制への従属拒否しローマ教皇への忠誠誓ったカトリック聖職者多く処刑された。統領政府期の1801年ナポレオン1世ローマ教皇ピウス7世の間でコンコルダ政教条約)が結ばれカトリック教会プロテスタントルター派教会カルヴァン派教会、およびユダヤ教会4つ教会公認され信教の自由認められた。その後復古王政ブルボン朝 (1814-1830) においてカトリックが再び国教として復活し七月王政 (1830-1848)、第二共和政 (1848-1852)、第二帝政 (1852-1870) の期間を通じ第三共和政 (1870-1940) の初期に至るまで、カトリック勢力と反教権勢力対立続いた。これは特に、公立学校創設に関する1833年ギゾー法(フランス語版)、公立学校発展推進および国家による私立学校への財政援助について定めた1850年のファルー法(フランス語版)の成立などの学校教育制度の確立に至る経緯において、カトリック教会派と、反教権運動の旗頭ヴィクトル・ユーゴー (1802-1885)、ジュール・ミシュレ (1798-1874)、エドガー・キネ(フランス語版)(1803-1875) らとの対立として顕在化した。さらに、1850年代には「自由思想家」と呼ばれる急進的な教権運動生まれ、両派の闘いは特に「公立学校」対「私立学校」という問題集約されるに至った。 「ヨーロッパにおける政教分離の歴史#フランス革命と政教分離」も参照 フランス革命により、アンシャン・レジーム下の特権的身分的支配統治構造解体され結果権力一元的掌握する集権的な国家構造構築された。教会などの「社団」的身分編成原理破壊されたため、各個人をつなぐ紐帯失われた革命後に権力を掌握した人々は「一にして不可分 (une et indivisible)」というスローガン象徴されるような近代国民国家 (État-Nation) の樹立目指した。そして権力者たちはその紐帯役割教育に担わせようと考えたアンシャン・レジーム下で支配的なイデオロギー装置であった教会駆逐することには二つの意味があった。第一に教会従属していた成人解放することにより、さらにその上王制への従属破壊することを目的とした。第二に、子供教育対す教会からの影響排除することを目的とした。これらの目的達するために教育国家管掌事項となった。つまり、教育共和制国家形成する目的行われるようになったアンシャン・レジーム崩壊する過程において、1789年8月封建的特権廃止後に採択され人権宣言人間と市民の権利の宣言)により、思想・良心の自由法の下の平等はじめとする普遍原則確立された。1958年第五共和政憲法前文ではこの人宣言憲法一部をなすと宣言されている。 なかでも人権宣言第10条の「何人も、その意見表明法律によって定められた公の秩序乱さない限り、たとえ宗教上のものであっても、その意見について不安を持たないようにされなければならない」という信教の自由第五共和政憲法でも保障されている。 19世紀に、ライシテに関する一連の法律施行され次第国家カトリック教会とのつながり断たれ共和主義普遍主義原則に基づく新たな政治・社会規範確立されていったこうした過程は、教義切り離されたより広義近代化政治・社会基盤三権分立国家組織教育、非宗教的な生活習慣法律道徳観など)の見直し改革を含む民主化 ― の一環であり、とりわけ第三共和政においては公教育ジュール・フェリー義務無償とともに公教育の非宗教化を粘り強く推し進め義務制を定め1882年3月28日法律において非宗教性をも明文化するに至ったジュール・フェリー法(フランス語版))。これを補う1886年10月30日の「ゴブレ法(フランス語版)」は、特に第17条公立学校教師はすべてライックでなければならない規定している。また、これらの法律により宗教道徳教育排して道徳公民教育導入された。1880年代ジュール・フェリー法の立案執行の任にあたり1887年に『教育学初等教育事典』を編纂し、自ら「道徳」の項目を執筆した自由主義的プロテスタントのフェルディナン・ビュイッソン (1841-1932) は、「ライックな信仰」という概念により、教権派の「神なき学校」という批判対抗しポール・ジャネ提出した道徳教育計画(国が与えるべき、宗教教義から独立した道徳規範)に基づく学習要領発表した1894年起きたドレフュス事件教権派と共和派対立結びつく大問となったドレフュス擁護派1898年に「人権同盟」を結成し政教分離支持反教権主義立場表明した。さらに1899年6月22日急進派支持受けたピエール・ワルデック=ルソー内閣成立1901年7月1日ワルデックルソー法(結社法)第13条により、修道会は3か月以内認可を得ることが義務付けられた。1902年選挙でも左派社会党急進党勝利し、エミール・コンブが首相に就任コンブ1902年7月には約3千の無認可修道会学校次々と閉鎖追い込み、約2万人の修道会員、54修道会フランスから追放された。また1901年法に基づく認可申請もその多く却下された。ビュイッソンは「人間と市民の権利の宣言文言精神を傷つけることはできない」として「修道会教育の自由」を否定した1904年7月7日法律第1条で「フランスではあらゆる段階あらゆる種類修道会による教育禁止される」と規定され1904年7月29日フランスローマ教皇庁との国交断絶された。

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