フランス革命と1958年の第五共和政憲法
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「ライシテ」の記事における「フランス革命と1958年の第五共和政憲法」の解説
ライシテの起源はフランス革命 (1789-1799) にある。フランス革命では、共和制への従属を拒否し、ローマ教皇への忠誠を誓ったカトリック聖職者の多くが処刑された。統領政府期の1801年、ナポレオン1世とローマ教皇ピウス7世の間でコンコルダ(政教条約)が結ばれ、カトリック教会、プロテスタントのルター派教会とカルヴァン派教会、およびユダヤ教会の4つの教会が公認され、信教の自由が認められた。その後、復古王政ブルボン朝 (1814-1830) においてカトリックが再び国教として復活し、七月王政 (1830-1848)、第二共和政 (1848-1852)、第二帝政 (1852-1870) の期間を通じ、第三共和政 (1870-1940) の初期に至るまで、カトリック勢力と反教権勢力の対立が続いた。これは特に、公立学校の創設に関する1833年のギゾー法(フランス語版)、公立学校の発展・推進および国家による私立学校への財政援助について定めた1850年のファルー法(フランス語版)の成立などの学校教育制度の確立に至る経緯において、カトリック教会派と、反教権運動の旗頭ヴィクトル・ユーゴー (1802-1885)、ジュール・ミシュレ (1798-1874)、エドガー・キネ(フランス語版)(1803-1875) らとの対立として顕在化した。さらに、1850年代には「自由思想家」と呼ばれる、急進的な反教権運動が生まれ、両派の闘いは特に「公立学校」対「私立学校」という問題に集約されるに至った。 「ヨーロッパにおける政教分離の歴史#フランス革命と政教分離」も参照 フランス革命により、アンシャン・レジーム下の特権的・身分的支配統治構造が解体された結果、権力を一元的に掌握する集権的な国家構造が構築された。教会などの「社団」的身分編成原理が破壊されたため、各個人をつなぐ紐帯が失われた。革命後に権力を掌握した人々は「一にして不可分 (une et indivisible)」というスローガンに象徴されるような近代国民国家 (État-Nation) の樹立を目指した。そして権力者たちはその紐帯の役割を教育に担わせようと考えた。アンシャン・レジーム下で支配的なイデオロギー装置であった教会を駆逐することには二つの意味があった。第一に、教会に従属していた成人を解放することにより、さらにその上の王制への従属を破壊することを目的とした。第二に、子供の教育に対する教会からの影響を排除することを目的とした。これらの目的を達するために教育は国家の管掌事項となった。つまり、教育は共和制国家を形成する目的で行われるようになった。アンシャン・レジームが崩壊する過程において、1789年8月の封建的特権の廃止後に採択された人権宣言(人間と市民の権利の宣言)により、思想・良心の自由、法の下の平等をはじめとする普遍原則が確立された。1958年の第五共和政憲法の前文ではこの人権宣言が憲法の一部をなすと宣言されている。 なかでも、人権宣言第10条の「何人も、その意見の表明が法律によって定められた公の秩序を乱さない限り、たとえ宗教上のものであっても、その意見について不安を持たないようにされなければならない」という信教の自由が第五共和政憲法でも保障されている。 19世紀に、ライシテに関する一連の法律が施行され、次第に国家とカトリック教会とのつながりが断たれ、共和主義的普遍主義の原則に基づく新たな政治・社会規範が確立されていった。こうした過程は、教義と切り離されたより広義の近代化 ― 政治・社会基盤(三権分立、国家組織、教育、非宗教的な生活習慣、法律や道徳観など)の見直しや改革を含む民主化 ― の一環であり、とりわけ第三共和政においては、公教育相ジュール・フェリーが義務・無償制とともに公教育の非宗教化を粘り強く推し進め、義務制を定める 1882年3月28日の法律において非宗教性をも明文化するに至った(ジュール・フェリー法(フランス語版))。これを補う1886年10月30日の「ゴブレ法(フランス語版)」は、特に第17条で公立学校の教師はすべてライックでなければならないと規定している。また、これらの法律により宗教道徳教育を排して道徳・公民教育が導入された。1880年代のジュール・フェリー法の立案・執行の任にあたり、1887年に『教育学・初等教育事典』を編纂し、自ら「道徳」の項目を執筆した自由主義的プロテスタントのフェルディナン・ビュイッソン (1841-1932) は、「ライックな信仰」という概念により、教権派の「神なき学校」という批判に対抗し、ポール・ジャネが提出した道徳教育計画(国が与えるべき、宗教の教義から独立した道徳規範)に基づく学習要領を発表した。 1894年に起きたドレフュス事件は教権派と共和派の対立と結びつく大問題となった。ドレフュス擁護派は1898年に「人権同盟」を結成し、政教分離支持・反教権主義の立場を表明した。さらに1899年6月22日に急進派の支持を受けたピエール・ワルデック=ルソー内閣が成立。1901年7月1日のワルデック=ルソー法(結社法)第13条により、修道会は3か月以内に認可を得ることが義務付けられた。1902年の選挙でも左派の社会党・急進党が勝利し、エミール・コンブが首相に就任。コンブは1902年の7月には約3千の無認可の修道会系学校を次々と閉鎖に追い込み、約2万人の修道会員、54の修道会がフランスから追放された。また1901年法に基づく認可申請もその多くが却下された。ビュイッソンは「人間と市民の権利の宣言の文言や精神を傷つけることはできない」として「修道会の教育の自由」を否定した。1904年7月7日の法律第1条で「フランスではあらゆる段階、あらゆる種類の修道会による教育は禁止される」と規定され、1904年7月29日、フランスとローマ教皇庁との国交が断絶された。
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