統治構造とは? わかりやすく解説

統治構造

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 18:30 UTC 版)

鎌倉幕府」の記事における「統治構造」の解説

当初鎌倉幕府鎌倉殿主宰者とする武士首班とした地方政権で、支配東国中心としており、承久の乱後、全国政権へ飛躍し権力拡大させたものであるが、そもそも当初から全国政権志向したわけでなく、あくまで朝廷権力前提とした地方政権であった。その大きな理由のひとつが鎌倉幕府荘園公領制前提とした政権であることである。 地方土地私有する武士団起源は、天平15年743年)、朝廷効果的に収税を行うべく発布した墾田永年私財法施行により土地私有公認されたことに由来し古来豪族や有力農民などが土地私有するようになったが、国司による厳し徴税回避すべく有力地主たちは公卿土地一部寄進し、荘園荘官開発領主としての地位得たことが契機であった寄進した貴族保護は受けるとはいえ今度寄進した荘園領主からの取り立て国司との摩擦近隣豪族侵略絶えず、有力農民たちはいつしか武装するようになり、武士誕生する。 やがて有力農民たちに由来する武士は、武士団起源となり、都から派遣され下級貴族官人)、さらに源朝臣平朝臣など堂上家地下家上位軍事貴族棟梁として仰ぎ主従関係を結ぶことによって本領安堵郡領惣村宿場駅家)や港(水駅)の経営など、また盗賊落ち武者狩り)や海賊水軍参照)を確実なものとした。棟梁の戦に従軍し新たな領地与えられることで繁栄糸口得たのである源頼朝はそうした各地武士団統べる貴族名門中の名門であり、頼朝鎌倉幕府とは、御家人となった武士地頭職授けることで本領安堵行い武功により新たな領地与え新恩給与を行う、まさに荘園公領制媒介とした、御恩と奉公により武士の利害代表する政権であったといえる。そして、鎌倉幕府政治的基盤及び軍事的経済的基盤頼朝平氏追討恩賞などとして獲得した関東知行国関東御領であった。 そして、鎌倉幕府朝廷権力前提とした政権であるという二つ目理由が、鎌倉幕府律令法制上、様々な存立根拠満たして成立しているという点である。 もともと伊豆蛭ヶ小島流人であった頼朝平氏追討兵を挙げる前提となった出来事は、以仁王いわゆる令旨」(厳密に御教書であった大庭景親はじめとする関東平家武士団破った頼朝は、治承4年1180年)、鎌倉拠点を置き統治開始するが、この時点ではまだ平将門変わらない、ごく私的な政権に過ぎなかった。しかし、寿永2年1183年)に入り朝廷頼朝平家敗れて流人となる前の従五位下復し頼朝要望従い平氏東国行った荘園公領横領廃止し、元の国司荘園領主帰属させる権限承認するいわゆる東国沙汰付与した。そしてこの権限履行のために東国地方官である国衙指揮する権能認められのであるいわゆる寿永二年十月宣旨である。 元暦2年1185年3月24日には、壇ノ浦の戦い平氏を滅ぼすことに成功した頼朝朝敵追討功労者として平家所有していた荘園いわゆる平家没官領支配権要求して承認され、後に鎌倉殿直轄荘園関東御領呼ばれる所領獲得したまた、平家滅亡後頼朝叛旗翻した弟・源義経叔父源行家後白河法皇から頼朝追討院宣賜ると、頼朝はこれに抗議し朝廷頼朝推薦した公卿議奏として、議奏をもって朝廷政治担当させること、義経・行家追討院宣発すること、加えて、その追討のために東国及び畿内守護及び地頭を置くことを認可し、さらに荘園公領問わず反別五升の兵粮米徴収頼朝与えることを求めたいわゆる文治の勅許である。 その後頼朝東北強大な独立勢力築いていた奥州藤原氏滅ぼし建久元年1190年11月権大納言右近衛大将に任ぜられた(位階は既に元暦二年(1185年)に従二位叙され文治五年(1189年)に正二位昇叙されていた)。 これによって、三位上の公卿認められる家政機関政所設置公に認められそれまで頼朝独自に設置してきた公文所政所改め官職右近衛大将の略称である右大将因み右大将家政所と称したそれまで頼朝個人として官職復帰や、東国沙汰拠り所としていた鎌倉東国政権は、朝廷公認家政機関としての位置付け得て統治機構としての正当性獲得したのである建久2年1191年1月15日鎌倉帰還した頼朝年頭行事祝い事など画期行われる吉書始行い右大将家政所を司る四等官として政所別当大江広元、令に二階堂行政案主藤井俊長、知家事中原光家それぞれ任じ問注所執事三善善信侍所別当和田義盛侍所所司梶原景時公事奉行人藤原親能他6名、京都守護外戚公卿でもある一条能保鎮西奉行人に天野遠景任じ鎌倉幕府陣容固めた建久3年1192年7月12日頼朝朝廷から征夷大将軍宣下された。『山槐記建久3年1192年7月9日条および12日条によると、頼朝望んだのは「大将軍」であり、それを受けた朝廷で「惣官」・「征東大将軍」・「征夷大将軍」・「上将軍」の4つ候補提案され検討され結果平宗盛任官した惣官」や源義仲任官した征東大将軍」は凶例であるとして斥けられ、また「上将軍」も日本では先例がないとして坂上田村麻呂任官した征夷大将軍」が吉例として選ばれたという。この時代においては名誉職化していた征夷大将軍に、左大臣にも相当する正二位という高位就いたことは、軍に基づく政権担当者という意味合い加わり、これが幕府主宰者世襲されたことによって、鎌倉幕府朝廷代わる政権として名実ともに確立された。また、戦時において全国兵馬動員できる征夷大将軍への任命は、頼朝非常大権付与せしめることを意味した。後に源頼朝武家政権始祖として武士神聖視されることとなる。 このように鎌倉幕府朝廷公的制度である荘園公領制前提とし、朝廷から幾重もの権限承認委譲を受け、成立した政権であるということができる。

※この「統治構造」の解説は、「鎌倉幕府」の解説の一部です。
「統治構造」を含む「鎌倉幕府」の記事については、「鎌倉幕府」の概要を参照ください。

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