統治形態と君臣関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 15:02 UTC 版)
「ジョホール王国」の記事における「統治形態と君臣関係」の解説
ジョホール王国の旧来の統治形態は、マラッカ王国のそれを引き継いだ。最も高い権威は、スルタンとして知られる「ヤン・ディ・ペルトゥアン」(国王)の手中にあり、スルタンは、スルタンへの助言を任務とする「マジュリス・オラング・カヤ」(富裕者の評議会)の補佐を受けた。評議会を構成したのは、ブンダハラ(宰相)、トゥムングン(首長)、ラクサマナ(提督)、シャーバンダル(港市長官)、そしてスリ・ビジャ・ディラジャであった。18世紀においては、ブンダハラはパハンに住み、ジョホールのトゥムングンはシンガポールのテロッ・ベランガに住んだ。各称号の貴族は、ジョホールのスルタンより授与された各権限にもとづき、それぞれ独立した地域の管理経営をおこなった。 ジョホール帝国は分権化されていた。それは4つの主要な封土とスルタンの領土から成っていた。封土については、ムアルとその領域はムアルのラジャ・トゥムングンの支配下にあり、パハンはブンダハラがその執事職を務め、リアウは副王の統制下にあって、現ジョホール州の主要部とシンガポールはトゥムングンの下にあった。それ以外の「帝国」の領域はスルタンに属した。リアウ・リンガ王国の時代には、スルタン自身はリンガに住んだ。ラジャ・トゥムングン・ムアルを除くオラング・カヤ(「富裕者」)はスルタンに直接上申することができた。ムアルにあってラジャ・トゥムングンはスルタンより独立国家の君主として承認されていた。 マレー人の間では、王族と臣下(海上民)の関係は双務的、ないし対等な者同士の契約関係であった。すなわち、王が臣下を保護する限りにおいて王に忠誠をつくすのであり、王が臣下に対し必ずしも絶対的な支配権をもつというものではなかった。しかし、その一方で、イスラームの受容によってマレーの王権は従前の「デワ・ラジャ(神王)」の観念に「ウンマ(イスラーム共同体)の統治者」という観念が付加され、しだいに「アッラーの地上における影」として絶対的な権威をもつようになった。時代が下るとともに従来の双務的な君臣関係は国王絶対の専制的なものに変化していったのである。王族・廷臣をはじめとするムスリムは、王に対して無条件の忠誠と服従を誓わなくてはならず、王に対する不忠や背信・反逆は「ドゥハルカ」と総称され、死刑をもって罰せられる重罪と考えられた。しかし、そのなかであっても、王は、「アディル」(正義)と称される王にふさわしい資質と規範をもたなければならないとされ、また、王族・廷臣らによるコンセンサスと協議による制約を受けていた。王位継承も含め、重大な政治的案件に関しては、王の独断専行は許されていなかった。ジョホールの国内政治史は、一面では、こうした異なる方向性をもつ君臣関係のせめぎ合いの歴史ともみなすことができる。
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