統治制度の整備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 16:29 UTC 版)
武王大武芸の三男として生まれた。仁安19年(737年)に渤海王位を継承すると、翌年大興と改元した。即位後、唐は内侍を派遣し渤海郡王 左驍衛大将軍 忽汗州都督に冊封された。その治世は唐の制度に学び国内を整備する文治政治に特徴がある。文王即位以前の渤海では部族制と郡県制が並存した行政制度であった。それを唐制に倣って上京龍泉府を中心とし、域内に府州を設置することで中央集権的な統治を確立する基礎を整備し、また中央統治機構も三省六部を整備しその支配体制を強化した。またこの時代には散官制度と勲爵制度が整備された。 中央制度では唐の五京制に倣い上京・東京・中京が設けられ、780年代には東京龍原府への遷都が実施されている。また『続日本紀』には南海府の名称も出現し、同時に東京の名称から西京が既に整備されていたことが類推されこの時期に渤海の五京制が確立していたと類推される。この五京制は渤海のみならず、後の遼や金の時代にまで影響を与えるものであった。
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