プロイセンの勃興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 15:43 UTC 版)
「オーストリア継承戦争」の記事における「プロイセンの勃興」の解説
ブランデンブルク=プロイセンは北方戦争によって国際的影響力を増し、さらにスペイン継承戦争でハプスブルク家側に付いた結果、神聖ローマ皇帝レオポルト1世より王号を認められた。1701年1月18日、初代国王フリードリヒ1世は「プロイセンにおける王」(König in Preußen)として即位し、プロイセン王国が誕生した。フリードリヒ1世は、軍政と財政を合わせて管轄する総軍事委員会(英語版)や、地方貴族代表の地方長官と君主から派遣されていた地方委員(ドイツ語版)に統一することで、軍制の強化を図った。 第2代国王のフリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、1723年に軍事財政管理局(英語版)を創設して、父王の政策を継いで行政組織を強化した。傭兵への依存による欠点を補うため、まず1716年に陸軍幼年学校(ドイツ語版)を設立し、プロイセン貴族からのみ将校を育成した。そして1733年に正式成立したカントン制度に基づく農民からの徴兵により、フランス、ロシアに次ぐ規模の陸軍大国となっていた。 フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の王太子フリードリヒは文化面にも優れ、生涯に様々な著書や論考を遺した。1738年には『ヨーロッパ諸国家体制の現状に関する考察』を記した。さらに1739年に記した『マキャヴェリ駁論』では、啓蒙思想に基づき「君主は人民の第一の下僕に過ぎない」と説き、自然権として人民の福祉を果たすために、それを直接防衛する軍事を重んじ、即位後は親政を執った。しかし、これはプロイセンの利害のために、既存の勢力均衡を武力で変更することを正当化した思考でもあった。 1740年10月、フリードリヒ王太子が第3代国王フリードリヒ2世(大王)として即位する。フリードリヒは、マリア・テレジアの相続と夫フランツ・シュテファンの皇帝選出に異議はなかった。しかし、特にユーリヒ=ベルクとシュレージエンについて、相続要求の権利がプロイセンにとって合法的であるとして、妥協することはできず、ハプスブルク家およびフランスとの対決を決心するに至った。
※この「プロイセンの勃興」の解説は、「オーストリア継承戦争」の解説の一部です。
「プロイセンの勃興」を含む「オーストリア継承戦争」の記事については、「オーストリア継承戦争」の概要を参照ください。
- プロイセンの勃興のページへのリンク