ブランデンブルク=プロイセンの勃興と宗教寛容策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 03:54 UTC 版)
「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「ブランデンブルク=プロイセンの勃興と宗教寛容策」の解説
詳細は「ブランデンブルク=プロイセン」を参照 ドイツないし神聖ローマ帝国域におけるオーストリアの存在感に対し、ブランデンブルクは「帝国の砂箱」と呼ばれるような地味も資源も乏しい辺境にすぎなかったが、17世紀初頭にライン川流域のクレーヴェとマルク伯領を、東方ではポーランド王の宗主権下にあるプロイセン公国を継承し(ブランデンブルク=プロイセン)、上述のようにヴェストファーレン条約によってミンデンなどを獲得した結果、支配領域が東西に拡大してザクセン選帝侯領とならぶ雄邦へ成長した。とはいえ、それも同君連合としてであり、オーストリアの圧倒的な国力とは比べるべくもなかった。その間、ヨーハン・ジギスムント選帝侯は1613年までに政治的理由からカルヴァン派に改宗している。 17世紀後半において三十年戦争後の経済再建はドイツ諸邦にとっては焦眉の課題であり、中小領邦の分裂する状況ではなかなか進まず、とくに国内関税は自由な通商を妨げる大きな障害となった。比較的大きな領邦国家や地理的に有利な都市は経済再建に向けて行動したが、新興のブランデンブルク=プロイセンはとくに精力的に取り組んだ。1671年、ブランデンブルク=プロイセンの君主フリードリヒ・ヴィルヘルム(「大選帝侯」)はオーストリアから追放された富裕なユダヤ人家族に定住許可を与え、保護状を付与した。一方、オランダ人やフランス人など外国人の入植政策を積極的に進め、とくにフランスで1685年にナントの勅令が廃止されると、ただちにポツダム勅令を発してユグノー(カルヴァン派)を「改革派宗教に心寄せる同胞」と称して受け入れを宣言し、当時1万人弱のベルリンだけでも約6000人のユグノーを招き入れ、人口増殖政策に加えてオランダ人やユグノーの商工業者の指導のもとでの産業の復活を目指した。これはルイ14世の宗教政策を批判するものであり、今まで彼からの報奨金と引き換えに実施していた親仏政策は破棄され、オランダのオラニエ公ウィレム3世との軍事同盟締結という政策転換につながった。このカルヴァン派同盟にはドイツやスカンジナヴィアのプロテスタント諸侯も加わって反ルイ14世陣営が形成され、これに神聖ローマ皇帝やスペイン国王さえ加わることがあった。 プロイセンが権力国家として変貌を遂げたのは三十年戦争後の約100年であり、それはほとんど「大選帝侯」フリードリヒ・ヴィルヘルムとその孫のプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(「軍人王」)の2人によっている。その出発点となるのが常備軍の創設(軍隊の国有化)であり、常備軍はヴェストファーレン条約と1653年・1654年開催のレーゲンスブルク帝国議会の規定によって法的には基礎づけられたが、ブランデンブルク=プロイセンの場合はバルト海の覇権をめぐってスウェーデンとポーランドが争った北方戦争(1650年-1661年)への対応が、その契機となった。フリードリヒ・ヴィルヘルムはこの戦争でスウェーデン側に立ち、プロイセンのポーランド宗主権からの解放を目指して戦った。これについてはホーエンツォレルン家支配下の各地の領邦等族は他地域での戦兵の動員に強く反対したがヴィルヘルムはこれを押し切り、さらに戦争終結後も動員された軍隊を解散させずに常備化する方針を打ち立てると、これに対しても領邦等族との激しい対立が生じたが制してその過程でさらに君主権を強化させていった。それに合わせ、税制や官僚制の整備拡充や重商主義政策などを連鎖的に進めたが、その際に模範としたのはフランス絶対王政であった。上記の宗教的寛容や外国人移植政策は、新興プロイセンの重商主義政策とも深い関連を有していた。 1657年のオリヴァ条約でプロイセン公国はポーランドの宗主権から脱し、1701年にフリードリヒ・ヴィルヘルムの子フリードリヒ3世は神聖ローマ皇帝からスペイン継承戦争に参戦することを条件として、「プロイセンの王」を称することが許された。これによって公国はプロイセン王国に昇格し、プロイセン公フリードリヒ3世は初代プロイセン王フリードリヒ1世となった。
※この「ブランデンブルク=プロイセンの勃興と宗教寛容策」の解説は、「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の解説の一部です。
「ブランデンブルク=プロイセンの勃興と宗教寛容策」を含む「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事については、「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の概要を参照ください。
- ブランデンブルク=プロイセンの勃興と宗教寛容策のページへのリンク