ブランデンブルク門の完成とナポレオンの占領
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「ブランデンブルク門」の記事における「ブランデンブルク門の完成とナポレオンの占領」の解説
ブランデンブルク門から東に向かうとウンター・デン・リンデンを経て王宮へとつながっており、プロイセン王族が、ベルリン市外に出てポツダムやティーアガルテンに向かう時には必ずこの門を通過する、ベルリンの正門と言っても過言ではない位置付けだった。ブランデンブルク門はフリードリヒ・ヴィルヘルム2世の命により建築家カール・ゴットハルト・ラングハンス(英語版)によって古代ギリシャ風に設計され、1788年から3年間の建設工事を経て1791年8月6日に竣工している。これといった竣工式も行なわれないまま門は開通、供用に付されたという。門はアテネのアクロポリスの入り口にあったプロピュライアの門を模しており、当時ドーリア式円柱だけが残っていたプロピュライアの創建時の姿を想像してそのままベルリンに再現した(実際は三角形の破風がプロピュライアの上にはあったと思われるが、ラングハンスは水平の屋階(アティック)を載せている)。「建築史的にはそれは、ベルリン新古典主義の幕明けを告げる傑作」となった。さらに門の上には、彫刻家ヨハン・ゴットフリート・シャドウ(Johann Gottfried Schadow)が制作した四頭立ての馬車(クアドリガ)に乗った勝利の女神ヴィクトリアの像が乗せられた。 もとは平和の勝利を記念する「平和門」としての位置づけであったが、完成直後にナポレオン・ボナパルトによりベルリンは征服されブランデンブルク門はナポレオンのパレードの舞台と化し、ヴィクトリア像はフランスへ戦利品として持ち去られた。その後のナポレオン戦争によりプロイセン軍がパリを占領すると、ヴィクトリア像は再度ベルリンに持ち帰られ門の上に戻された。門は戦勝と凱旋のシンボルとなり、門のあるカレ広場(四角形広場の意)はパリ広場に改名され、ヴィクトリアの持つ杖には勝利を記念して鉄十字紋章が取り付けられた。門の前は列強の大使館やホテル・アドロンなどの壮麗な建築群が並ぶベルリンの中心地のひとつとなった。
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