ブランデンブルク選帝侯妃(1366年 - 1373年)
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「カタリーナ・フォン・ベーメン」の記事における「ブランデンブルク選帝侯妃(1366年 - 1373年)」の解説
ヴィッテルスバッハ家のブランデンブルク選帝侯オットー7世は、バイエルン公家内部の継承問題のため、異母兄シュテファン2世と対抗してカール4世と合意することとし、カール4世はこの機会を利用してクールマルク(英語版)を自らの領土に組み入れた。 1366年3月19日、カタリーナとオットー7世はプラハで結婚した。カタリーナは長いことためらったのち、父親の政治的目標のためだけに結婚を了承した。オットーは最初、カタリーナの異母妹エリーザベトと結婚する予定であった。しかしルドルフ4世の予期せぬ死のため、皇帝カール4世はカタリーナをオットーと結婚させることとした。エリーザベトとオーストリア公アルブレヒト3世(ルドルフ4世の弟)との結婚式も同日に行われ、アルブレヒト3世は1366年3月26日にルクセンブルク家との相続契約を結んだ。プラハで行われたこの2組の結婚により、カール4世は帝国内における立場を強化することができた。 結婚の後、オットー7世は飢饉と抗争に悩まされていたブランデンブルク辺境伯領の管理を、6年の間舅のカール4世にゆだねた。これによりカール4世は、シレジアおよび上ラウジッツで手に入れた地位を確実にし、北への領地拡大を開始することができた。その消極的な性格から「無為公」とあだ名されるオットー7世は、皇帝に強いられたせいもあり、カタリーナと共にプラハの宮廷にとどまり、1368年に下ラウジッツをカール4世に売却した。 1369年1月、カタリーナは父カール4世に従いローマを訪れた。しかしカール4世らはシエーナで貴族と市民の党派争いに巻き込まれたため、カタリーナと4番目の妃エリーザベト・フォン・ポンメルンにプラハへの帰還を命じた。 1373年8月15日、カール4世はオットー7世よりブランデンブルク辺境伯領を50万ギルダーで購入した。オットー7世は引き続きブランデンブルク選帝侯位を使うことを許された。同様に、カタリーナも1379年のオットー7世の死までブランデンブルク選帝侯妃位の使用を許されていたが、カタリーナはその称号を用いることはなかった。
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