ブランデンブルク・ポメラニア戦争
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「ゾルディン条約 (1466年)」の記事における「ブランデンブルク・ポメラニア戦争」の解説
1467年5月8日、メクレンブルクとザクセン選帝侯領はポメラニア諸公に条約を履行するよう警告、経済ボイコットで脅した。一方、ハンザ同盟、特にリューベックはシュテッティンの行動(ブランデンブルク選帝侯への忠誠の誓いの拒否)を支持した。1468年5月2日、ブランデンブルクはシュテッティンに通告を送り、条約の履行を再度求め、戦争の脅威で脅したが、結局戦争は7月中旬に勃発した。ブランデンブルクと同盟したメクレンブルクの軍勢はトレンゼ川(英語版)を渡ってフォアポンメルン(英語版)に入り、一方ブランデンブルク軍は南から攻撃した。その後、ブランデンブルク軍は7月にレックニッツ(英語版)とガルツ(英語版)を略奪、メクレンブルク軍も8月初にアルテントレプトウ(英語版)を略奪した。ブランデンブルクとメクレンブルクがさらに軍を進めると、シュトラールズントとグライフスヴァルトが仲介して8月末に停戦した。 しかし、停戦協定は守られなかった。ポメラニア軍はブランデンブルク領に侵攻、9月7/8日にアルテントレプトウを奪回した。9月21日に講和交渉が決裂すると、メクレンブルクはブランデンブルクとの同盟を更新した。10月、ポメラニア軍はバーン(英語版)を略奪、ガルツを強襲したが、ガルツへの強襲は失敗に終わった。12月12日、ポメラニア代表ヤロスラウ・バルネコウ(Jaroslaw Barnekow)、ベルント・ブロッケ(Bernd Broke)、クラウス・ゴールトベック(Klaus Goldbeck)はプレンツラウで講和交渉を呼び掛けたが、ポメラニア軍による攻撃が継続していたためブランデンブルクに拒否された。しかしその後もプレンツラウでの交渉は続き、1469年1月8日にはエーリヒ2世とヴァルティスラフ10世がプレンツラウの市場でゾルディン条約の順守を誓い、公国も8日内に忠誠を誓うとした。15日、ポメラニア貴族の一部が選帝侯への宣誓を行ったが、5月にはシュテッティンが再びハンザ同盟の支援を受けて宣誓を拒否した。一方、ポメラニア諸公はフリードリヒ3世に働きかけ、ゾルディン条約の無効を宣言させようとした。 1469年7月14日、フリードリヒ3世は勅令を発してゾルディン条約を無効とし、ポメラニアを帝国直属(英語版)と定め、ブランデンブルクによるポメラニア公国への攻撃を禁じた。同日、ポメラニア軍がブランデンブルクのノイマルク(英語版)に侵攻したが、シフェルバインの戦いで敗北した。25日、ブランデンブルク選帝侯が反攻して、30日にウッケルミュンデ(英語版)に軍を進めた。シュトラールズントとシュテッティンの支援を受けたウッケルミュンデの町はブランデンブルクとメクレンブルクの連合軍により8月10日まで包囲された。1469年10月21日、ポメラニアとメクレンブルクが講和条約を締結、片方がブランデンブルクと戦争した場合、もう片方に中立に留まる義務を課した。1470年5月、エーリヒ2世が再びノイマルクに侵攻した。
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