ブランデンブルク軍とデンマーク軍の上陸作戦
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「ブレーメン=フェルデン戦役」の記事における「ブランデンブルク軍とデンマーク軍の上陸作戦」の解説
ミュンスター、ブランデンブルク及びデンマーク各軍の進撃と並行して、デンマーク軍とブランデンブルク軍は2回にわたって上陸を試み、スウェーデン軍から多大な損害を被って撃退され、失敗していた。最初の上陸作戦は9月、戦略的に重要なカールスブルク要塞を攻略するべく、ブランデンブルクのズィーモン・デ・ボルファイ提督が敢行している。このスウェーデンの要塞は、ヴェーザー川の河口を支配するべく1672年に建設されたばかりであった。そこへエルベ川から7隻のブランデンブルクの艦隊が、534名の上陸部隊を乗せてやって来た。艦船の乗組員と合わせると、その数はおよそ800名から900名であった。 9月28日、この部隊はカールスブルクの北方、レーエ(ドイツ語版)に上陸する。800名を擁する比較的有力な守備隊を率いていた、カールスブルクのスウェーデン軍指揮官が降伏を拒絶したため、デ・ボルファイ提督は指揮下の部隊に命じて町の前面で防備を固めさせ、9月30日に数度にわたって艦砲で要塞を砲撃した。しかし同日中にも、上陸部隊は要塞から後退した。その際、ブランデンブルク兵30名がスウェーデン軍へと脱走している。これらの脱走兵の証言に鼓舞され、スウェーデン軍は10月1日に200名とともに出撃したが、短い戦闘を経て損害を被り、後退を余儀なくされた。 カールスブルク要塞を解囲するため、シュターデからスウェーデンの13個騎兵中隊がシドン中佐の指揮下、カールスブルクへ出発した。今や兵力において明確に劣勢となったブランデンブルク軍は、斥候からこの援軍の接近を報じられると攻囲を中断し、10月2日に再び乗船した。風向に恵まれなかったため、これらの上陸舟艇はスウェーデンの援軍が到着した時、まだ岸の近くにあった。その結果、スウェーデン軍に攻撃され、短い抗戦を経て優勢な敵に降伏する他なかったのである。この上陸作戦における、ブランデンブルク軍の損害は合計で314名に上った。そのほとんどは、捕虜である。 ほぼ同じ頃、デンマークの小艦隊(英語版)がハーヴィヒ中佐率いる歩兵6個中隊を伴い、ラント・ヴルステン(ドイツ語版)で上陸した。カールスブルク付近の作戦行動を成功させたシドン中佐は、これらのデンマーク傭兵を攻撃した。数度の交戦を経てスウェーデン軍はデンマーク軍を破り、400名を捕虜とすることに成功した。その内、200名がスウェーデン軍に採用され、カールスブルク守備隊の増援に向かうよう命令を受ける。他の捕虜はシュターデに「収容」された。即ち、同地のスウェーデン軍部隊の増強に回されたのである。スウェーデン軍の集団は10月7日、シュターデに帰還した。カールスブルクの海上封鎖は解かれ、ブランデンブルクの艦船7隻はシュターデ要塞の補給路を水辺から遮断するべく、代わりに下エルベ(ドイツ語版)へと向かう。カールスブルクはスウェーデン軍による防戦の成功に拘わらず、10月末から改めて攻囲されることになった。
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