部隊の増強
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 18:51 UTC 版)
1944年にマリアナ諸島を喪失した頃の陸軍の総兵力はおよそ400万人ではあったが、マレー半島やビルマから、朝鮮半島や満州国までという、日本軍の影響域に広く散らばって配備されていたことから、そのうち日本本土にあったのは、東部、中部、西部の各軍を合わせても約45万6千人で、総兵力のわずか11%に過ぎず、本土決戦を行うには兵力が不足していた。北海道、千島、樺太、小笠原諸島、南西諸島の本土周辺部、軍学校などのおよそ41万2千人、航空部隊、船舶部隊などの人員約45万3千人を合わせても132万1千人であり、総兵力の3分の一程度に過ぎなかった。 兵力の欠乏を補うため、満州国や北方からの部隊転用に加え、根こそぎ動員と呼ばれる大規模な部隊新設と召集を実施した。根こそぎ動員は、以下の大きく3回に分けて実施された。 1945年2月28日に臨時動員が下令された第一次兵備 4月2日と6日にかけて臨時動員が下令された第二次兵備 5月23日に動員下令された第三次兵備 これらの動員によって、一般師団40個、独立混成旅団22個など約150万人近くが動員された。日本軍は、前述の侵攻予想時期を念頭に部隊の編成を実施した。しかし、期間や物資の制限から最終的には、兵力や装備が不足していても、編成が完結したと見なす方針が取られた。そのため、これらの師団は結局中途半端な人員・装備のままで配備されていった。 また、補助的な戦力として、防衛召集により緊急時に動員する特設警備隊や地区特設警備隊も準備された。これらの部隊の装備状況は根こそぎ動員部隊に比べてもさらに悪かった。
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