部隊の成り立ちと編成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/01 01:29 UTC 版)
「カンプグルッペZbv」の記事における「部隊の成り立ちと編成」の解説
1941年11月、モスクワ戦で全軍最先頭の連隊長だったシュタイナー大佐が、ソ連軍の猛烈な反撃に恐怖して敵前逃亡したため、連隊の将兵はパニックを起こして兵員の半数を喪失し敗走。軍上層部は失態を隠蔽するために連隊を公式戦史から抹消し、シュタイナーは少佐に降格されブルクハイト中尉を始めとする連隊の残存兵を再編してカンプグルッペZbvが編成された。 その後は何度も壊滅寸前まで損害を被るが、そのつど脱走兵や陸軍刑務所に収監されていた囚人兵などを補充して再編成され、実質的には懲罰大隊として扱わるようになった。最終戦前には陸軍はおろか空軍通信連隊の通信兵までを含めた、原隊からはぐれた迷子兵を脱走兵扱いして強引に編入して再編成した。移動の際には野戦憲兵の護衛(実質的には監視)が付き、逃げようとした者は即刻射殺される。 ティーガー戦車と兵員の補充を受けた際に2個装甲中隊と1個装甲擲弾兵中隊に編成されたことから、部隊規模は1個装甲大隊基幹の戦闘団と判る。 所属はナルヴァ戦線、第502重戦車大隊、メーメル、クールラント、オストプロイセン等の固有名詞が登場することから北方軍集団の所属であると判断出来る。しかし第4軍と第18装甲集団の司令部の看板が描かれるなど、作中でも混乱が見られる。 実戦の経験・激しい訓練・シュタイナー少佐の指導力によって、カンプグルッペZbvの戦闘力は敵側からも脅威として認知されている。作中ではソ連海軍歩兵部隊の指揮官が「懲罰部隊のふりをした精鋭」と言及している。
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