部隊の招集
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「ジョン・ブラウン (奴隷制度廃止運動家)」の記事における「部隊の招集」の解説
1856年11月までにブラウンは資金を募るために東部に戻った。次の2年間、ニューイングランド中を旅して資金を集めた。著名なボストンの商人エイモス・アダムズ・ローレンスは大量の資本を投じた。1857年1月、マサチューセッツ州カンザス委員会の秘書官フランクリン・サンボーンはブラウンをボストン地区の影響力有る奴隷制度廃止論者に会わせた。この中には、ウィリアム・ロイド・ガリソン、トマス・ウェントワース・ヒギンソン、セオドア・パーカー、ジョージ・ルーサー・スターンズ、およびサミュエル・グリドリー・ハウがいた。6人の富裕な奴隷制度廃止論者、サンボーン、ヒギンソン、パーカー、スターンズ、ハウおよびゲリット・スミスがブラウンの奴隷制度廃止運動に対して財政的援助を行うことで合意した。6人は結果的にハーパーズ・フェリー襲撃の財政的援助をしたことになり、「秘密の6人」あるいは「6人委員会」と言われるようになった。ブラウンは、「質問無しで」6人からの援助を求めたので、どのくらい秘密の6人がブラウンの計画を知っていたかは明らかでない。 1858年1月7日、マサチューセッツ州委員会はアイオワ州ターボルに保管されているシャープス銃200挺と弾薬を差し出した。3月、ブラウンはコネチカット州コリンズビルのチャールズ・ブレアと1,000本の槍を契約した。 翌月、ブラウンはウースター、スプリングフィールド、ニューヘイブン、シラキュースおよびボストンを回って資金を集めた。ブラウンは多くの約束を貰ったが現金は少なかった。3月にニューヨーク滞在中、ヒュー・フォーブスに紹介された。イギリスの傭兵、フォーブスは1848年のイタリアでジュゼッペ・ガリバルディと戦った時に戦闘の戦術を体得していた。ブラウンはフォーブスを雇い、部隊の訓練をし、戦術書を書かせた。二人はその夏ターボルで落ち合う約束をした。 ネルソン・ホーキンスという仮名を用いながら、ブラウンは北東部を旅し、続いて家族のいるハドソンに行った。8月7日にはターボルに到着した。フォーブスは2日後に到着した。それから数週間、二人は南部の奴隷制と戦うための「良く練られた計画」を作った。二人は多くの細かな点で口論した。11月、その「軍隊」がカンザスに向かった。フォーブスはその給与を受け取れずブラウンとの確執が続いていたので、カンザスで冒険をする替わりに東部に戻った。フォーブスは間もなく計画を政府に暴くと言って脅してきた。 10月の選挙は自由州が勝利する見込だったので、カンザスは静かであった。ブラウンは部隊をアイオワに戻らせ、バージニアでの計画の断片を伝えた。1858年1月、ブラウンは部隊をアイオワ州スプリングデールに残し、ニューヨーク州ロチェスターにいるフレデリック・ダグラスに会いに行った。そこでダグラスと自分の計画について議論し、フォーブスの批判について再考した。ブラウンはその侵略する地域に立てる新しい州政府を作るための暫定憲法を書いた。次にピーターボロとボストンに行って秘密の6人と事態を話し合った。6人にあてたブラウンの手紙の中で、兵を集めると共に武器を持って南部に行き、「カンザスの仕事」を行うという計画を示していた。 ブラウンと息子のオーウェンを含む12名の追随者はオンタリオ州チャタムに行き、そこで5月8日に憲法会議を招集した。会議はマーティン・デラニー博士の協力で行われた。チャタムの住人6,000人のうち3分の1は逃亡奴隷であった。会議では34名の黒人と12名の白人を集め、ブラウンの暫定憲法を採択した。デラニーによれば、会議の間ブラウンはカナダではなくカンザスを地下鉄道の目的地にする計画に注意を促していた。これは地下の逃げ道であった。ブラウンはハーパーズ・フェリー襲撃について言及も匂わせもしていなかった。しかしデラニーの受けた印象は完全に信用できないというものだった。1858年までにブラウンはもはやカンザスの方向を向いておらず、その対象は完全にバージニアであった。チャタムの会合で得られた他の証拠はブラウンが南部に行くことを話したと暗示させるものであった。ブラウンは1840年代遅くから長い間地下の逃げ道という言葉を使っており、その後にデラニーがブラウンの言葉を合成してしまった可能性がある。兎に角、ブラウンが総司令官に選ばれ、ジョン・ヘンリー・カギを戦争長官に指名した。リチャード・レルフが国務長官に指名された。黒人の牧師エルダー・モンローは他の者が選ばれるまで大統領ということになった。A・M・チャップマンが副大統領で、デラニーは外務長官となった。この時かあるいはその少し後で、アメリカ合衆国における奴隷住民の宣言が書かれた。 代議員のほとんど全部が憲法に署名したが、ブラウンの軍隊に加わるものはほとんどいなかった。その後の襲撃計画を狂わせる「機密漏洩」が、ブラウンと多くのカナダの指導者との連絡を取れなくなる隙間を生んでしまったために、どれだけ多くのカナダにいる離脱者が実際にブラウン達に加わろうとしたか今でも明らかではない。この危機は、ブラウンの傭兵だったフォーブスがマサチューセッツ州上院議員のヘンリー・ウィルソン達に秘密を明かそうとしたことから起こった。秘密の6人は自分達の名前が公になることを恐れた。ハウとヒギンソンはブラウンの進行を遅らせないことを望み、パーカー、スターンズ、スミスおよびサンボーンは延期を主張した。スターンズとスミスが大口の出資者であったので、その発言に重みがあった。 フォーブスをやっかい払いし、その主張を無効にするためにブラウンは6月にカンザスへ戻り、そこに6ヶ月間留まった。そこでブラウンはミズーリ州への襲撃隊を率いたジェイムズ・モンゴメリーの部隊に加わった。12月20日、ブラウンは自分で襲撃隊を率い、11人の奴隷を解放し、2人の白人を捕らえ、馬や馬車を盗んだ。1859年1月20日、ブラウンは解放した11人の黒人を連れてデトロイトまでの長い旅に出て、その後船でカナダに渡った。 次の数ヶ月間、ブラウンは再びオハイオ、ニューヨーク、コネチカットおよびマサチューセッツを旅し、自分達への支援を集めた。5月9日、マサチューセッツ州コンコードで講演を行った。出席者の中にはブロンソン・オルコット、ロックウェル・ホーアー、エマーソンおよびソローがいた。ブラウンは秘密の6人とも接触した。6月、ブラウンはノース・エルバの家族を最後に訪れ、ハーパーズ・フェリーに向かった。
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