影響と歴史的意義
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17世紀以来、ブルボン家(フランス)にとって最大の敵はハプスブルク家(オーストリア)と考えられていた。そのため、フランス外交の基本路線は、ドイツやイタリアの諸国、ポーランド、スウェーデン、オスマン帝国というオーストリアに隣接する国との間で同盟関係を結び、オーストリア=ハプスブルク家を牽制し、あるいは場合によっては武力を行使するというものであった。「外交革命」はこうした、1世紀以上にわたって続いた国際関係の基本的枠組みに重大な変更をもたらした。そこには、植民地と貿易をめぐるイギリスとの長期にわたる対立があった。また、プロイセンの台頭も両国にとっては懸念されるところであった。「外交革命」後に起こった七年戦争では、ブルボン・ハプスブルクの両家が同盟関係をむすび、イギリス・プロイセンと戦ったのである。 ここにおいて、反ハプスブルク家のもとに周辺諸国が連携するという構造は完全に崩壊した。フランスにとって、オーストリアを挟撃するためにもポーランドは重要な友好国であったが、七年戦争後にプロイセンの主導でポーランド分割が行われるなど、従来からの国際秩序はいっそう再編が進むことになった。 1770年、フランス王太子ルイとマリー・アントワネットの結婚が成立している。
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影響と歴史的意義
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条約改正によって、日本は開国以来半世紀を経て、立憲制度と東アジア地域で最強となった軍事力を背景に、列強と対等の地位を得た。条約改正は、日本が欧米列強の支配する世界に編入された時から、政府にとっては悲願ともいうべき基本政策であった。 特に不平等条約中の治外法権条項は国家の独立を損なう大きな障害となっており、伊藤博文は、領事裁判権撤廃後の1899年(明治32年)5月の山口県下関市での講演において「いわゆる国権恢復とは即ち新たに国際上独立の地位を得ると云ふことである」と述べており、それ以前の日本は純粋な意味での独立国ではなかったとの認識を示している 。主権の一部である司法権が外国によって束縛された国家は、国家としての自己完結性を発揮することができない点で不全な国家であった。 それゆえ、明治政府にとって、すべての政策が条約改正のためという面を強く有していた。条約改正はまた、単に屈辱条約を撤廃しようというだけではなくて、日本の国力の基礎としての経済力の充実の問題と密接につながっていた。このように、条約改正事業は日本の近代化、国力の伸張の一側面としても理解されたため、国内治安の維持や法制改革も並行して推し進められたのであり、外交上の最優先課題とされたのであった。ここに、後にアジア主義へとつながっていく民間の理想主義に対して、明治政府首脳部が一貫して採った現実主義の外交姿勢が確認できる。 陸奥宗光によって法権を回復した日本は、小村壽太郎によって税権の束縛をも脱し、欧米諸国と完全に対等の関係を樹立しえたが、これは、非キリスト教国としては画期的な成果であったといえる。それを可能にしたのは、それぞれの外交担当者の粘り強い努力や極東を巡る国際情勢の変化はもとより、日本における民主主義の成長や資本主義の発展を基礎としていた。青木周蔵は、最初の対英覚書において、立憲制度と治外法権とは到底両立しうるものではないとの認識を示しており、榎本武揚も外相時代に立憲政体の下に治外法権の存在することは許さないとして、その決意を述べている。憲法発布後、枢密顧問官となっていた寺島宗則は、青木・榎本の言を引用して即時完全対等条約を主張し、伊藤博文もまた、国会開設後は国民の要求を満足させることのできない条約は結びえないと記している。ここにおいて日本が、いたずらに外国人への排斥的行動に出ることなく、一貫してあくまでも外交上合法的なかつ粘り強い交渉努力によって、劣悪な国際法上の地位を一歩一歩着実に向上させていったことの意味は見落とせない。 経済面では、1880年代末にはいわゆる「資本の原始的蓄積」を完了し、90年代には産業資本主義の基礎が確立して、少なくとも日本国内においては、欧米資本主義と対等に競争しうる環境が整っていた。このような眼前の事実が、国内の商工業者に内地開放に対しても自信を持たせ、それと引き替えに法権・税権を回復しようという要求、また、そうすることによって自国内市場を完全に確保しようという要求が起こった。このことについて、歴史学者の井上清は「日本人は近代民族として、政治的にも経済的にも、1890年代には、もはや不平等条約というかせをうち破らねばやまないまでに成長してきた」と表現している。 かくして条約改正は、国内的には、1899年に外国人に居住・旅行の自由と営業の自由とを認める「内地雑居」の状況を生み出した。ただし、日本国民と比較して極めて大きな経済力を持ち、習慣や思想を異にする外国人が日本人の間に入ってきて自由に生活し、生産活動や経済活動に従事することは、従来の日本社会に一大変革をもたらす大問題であり、いわば「第二の開国」と呼びうる衝撃であったことは確かである。この時期の労働問題はじめ社会・経済の問題を扱った著作としては横山源之助『内地雑居後之日本』が著名である。 課題として残されたのは、永代借地権であった。これは、日本人と同じ条件のもとで所有権を与えるよりも実は深刻な問題を残した。というのも、借地ないし地上の建物に対する、あるいはこれらを標準とする租税は国税・地方税問わず一切課税できなかったからである。こうした外国人保有地は、1903年(明治36年)段階で横浜、神戸、東京、大阪、長崎各市で総計48万8553坪におよんだ。永代借地権を完全に解消する協定が成立したのはようやく1937年(昭和12年)にいたってのことであり、それが実施に移されたのは、さらに5年後のことであった。 世界史的にみれば、日本と同様、列国と不平等条約を結んでいた中国(中華民国)がその束縛から解き放たれたのは1943年(昭和18年、民国32年)にいたってのことであった。蔣介石率いる中華民国では、穏健着実で現実路線を採りつづけた日本とは対照的に、政府みずから現行条約の非合法性を掲げて外国の諸権益の即時奪還を主張し、国権回復運動という民族主義的エネルギーを動員する急進的ないし理想主義的な方法が採られたのである。 そして、先進国と後進国との間で法的差別が完全に撤去されたのは、第二次世界大戦の終わった植民地解放後のことであった。
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影響と歴史的意義
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「社公連合政権構想」の記事における「影響と歴史的意義」の解説
社会党が共産党との手切れを表明したことは、同党が社共共闘から社公民路線に完全に舵を切ったことを示した。当時、公明党側の交渉を担当した一人である矢野絢也は後年、共産党を排除したことが「公明党の果たした一つの役割だったと思います」と発言している。 一方、共産党は社会党の路線転換を「決定的な右転落(右傾化)」と強く批判した。結果として、共産党は野党内でも孤立を深めていった。一方で社公による連立政権が具体化することはなく、公明党は民社党と共に自由民主党との結びつきを強めていった(自公民路線)。
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