影響と業績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/29 06:11 UTC 版)
国際的な認知を獲得し、自国でも大きな人気を誇るラットは「文化英雄」、「マンガになったマレーシアの良心」 、「マレーシアの象徴」など大仰な形容で呼ばれてきた。2005年、マレーシア報道協会は審査員特別賞をラットに授与し、ラットが「自らの力で誰もが知る存在となった」という評価を述べた。ムリヤディ、チュア、ルジャブハッドなどの東南アジアの漫画家はラットを絶賛しており、北米地域でもマット・グレイニングやエディ・キャンベル(英語版)のような崇拝者を持つ。『ザ・シンプソンズ』の作者であるグレイニングは、アメリカ版『カンポンボーイ』への推薦文で同作を「漫画の歴史を通した傑作のひとつ」と称賛した。グルー・ザ・ワンダラー(英語版)の作者セルジオ・アラゴネスはアメリカのラットファンの一人である。1987年にマレーシアを訪れたアラゴネスはその時の経験を活かして、ドジな剣士グルーがFelicidadという島を発見するストーリーを作った。Felicidad島の住民や自然環境はマレーシアをモデルにしていた。島民の鼻はラット独特のスタイルで描かれ、重要な原住民キャラクターである好奇心の強い少年はラットの名をつけられていた。 レントと清水はそれぞれ、ラットが1974年にフルタイムの漫画家となってからマレーシアの漫画産業が発展し始めたという説を唱えている。レントはさらに、ラットが1994年に「ダト (datuk)」(イギリスのナイトに相当)の称号を授与されたことで、漫画家という職業へのマレーシアにおける尊敬が高まったとまで言った。ペラ州のスルターンから授けられたこの称号は、ラットが同国人に与えた影響と祖国への貢献に対するマレーシア最高の褒賞だった。ラットの台頭以前には、ラジャ・ハムザやルジャブハッドのような人気作があったとはいえ、マレーシアにおいて漫画家という職業は一般から高く評価されていなかった。ラットの成功は、漫画家が成功して財をなすことが可能であることをマレーシア人に示し、漫画家をキャリアの選択肢に入れるよう促した。ラットのようになろうとして作風をまねた若い漫画家も何人かいる。ZambriabuとRasyid Asmawiはラットのキャラクターの特徴的である丸三つで描かれた鼻とヘアスタイルを模倣した。またReggie LeeとNanなどはラットの緻密な「テーマ的、スタイル的なアプローチ」を自作に取り入れた。ムリヤディはラットを「現代マレーシア漫画の父」と呼び、マレーシアの漫画家として初めて国際的に認知され、自国の漫画界のイメージを改善するのに貢献したことを称えた。 ラットの作品が影響を与えたのは芸術の分野にとどまらなかった。ラットのデビュー以前、マレーシアの漫画家は国民をひとつの統一されたまとまりとしてとらえることが必要だという考え方を支持していた。ひとつの作品には一種類の人種しか登場しないのが普通で、特定の人種や文化の特徴をあげつらう作品が主流の中に入り込んでいた。そのような漫画は、当時人種間の対立が噴きあがっていくのを和らげることはできなかった。1969年にはついに人種暴動が勃発し、収束後も数年にわたって人種間の関係はピリピリした壊れやすいものとなった。レザの主張によると、ラットは作品を通じて国家の人種対立を和らげたという。ラットは群衆シーンでは様々な人種を登場させ、彼らがともに生活している様子を描いた。それは穏やかで偏見のない漫画によって描き出されたマレーシア国民の姿だった。1981年の『タウンボーイ』では、(作中で明確に語られることはないものの)マレー系と中国系の間の緊張が最も高まっていた時期を舞台としながら、作者の分身である少年と中国系の級友とがアメリカのポップ音楽を媒介として自然に友情を結ぶ。レザの指摘によると、「多民族の読者層を持つ、マレーシア最大の英字新聞」に所属していたことで、ラットが人種間・文化間の調停者としての役割を負わされた側面もある。しかしラットには、それを遂行するのに必要な、様々な人種・文化に対する深い理解が備わっていた。 ファンが見るラット作品のトレードマークは「読者の悪い面を暴くのではなく善い面に訴えることで、誰をも心地よくノスタルジーに浸らせてくれる、安心感と品のあるユーモア」である。この方式はうまくいくことが証明されている。ラットの風刺漫画集が最初に発売された1977年から12年間で彼の著書は85万部以上売れた。ラットの作品には誰もが安心感を期待するため、マレーシアの政治的な人種対立を扱った2008年9月の漫画でラットがいつものスタイルを捨てたとき、ジャーナリストのKalimullah Hassanはショックを受けた。一本の傘の下でマレーシア国民が身を寄せ合い、レイシズムや不寛容から生まれる言葉の雨から身を守っている絵は、深い悲しみに満ちていた。 ラットの作品は学術的な研究でも引用されている。その分野は多様で、法、都市計画から食習慣にまで及ぶ。研究者は自分の主張をユーモラスに解説してくれる挿絵としてラットの絵を用いている。ラットは外国から招聘されることもある。本人によると、自国での経験を漫画として公開してくれるよう期待してのことだという。初めて招聘された国はアメリカ合衆国で、オーストラリア、ドイツ、日本が続いた。1998年、ラットは漫画家として初めてアイゼンハワー・フェローシップを受けてアメリカを再訪した。その際の研究プログラムはアメリカ社会の多様な人種間関係の研究だった。2007年、マレーシア国民大学はラットに人類学と社会学の名誉博士号を授与した。ラットの作品はマレーシアの文化史を視覚的に記録したものと認められている。2002年にはマレーの土着文化を作品に記録したことで福岡アジア文化賞を授与された。 1986年、漫画家として初めてクアラルンプールにあるマレーシア国立博物館で作品が展示され、2か月で60万人の記録的来場者を迎えた。ラットは名士とみなされており、そのキャラクターは切手、資産管理ガイドブック、旅客機に使われてきた。『リーダーズ・ダイジェスト』によるマレーシア人を対象にした2010年の調査で、国内著名人50人を信頼されている順にランク付けした際、ラットは第4位を占めた。ジャーファルはいう。「マレーシア人は100%例外なくラットを敬愛しているので、彼が描いているのが警官であれ、教師であれ、売春婦であれ、それがマレーシアの真実だと考える」
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