影響と戦略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 17:36 UTC 版)
「天王寺の戦い (1576年)」の記事における「影響と戦略」の解説
この戦いで勝利した織田軍は、摂津方面での陸戦での優位を確立した。以後、本願寺軍は討って出ようとはせず、籠城戦に持ち込んだのである。一時は第一次木津川口の戦いで毛利水軍が織田水軍に勝利して戦況が逆転しかけたこともあったが、天王寺砦の戦いで損害を受けた本願寺軍は2度と陸戦に出ようとはせず、毛利水軍もやがて第二次木津川口の戦いで織田水軍に敗れて壊滅し、本願寺勢力の孤立化が決定的となることになる。 また、この戦いでは、先述のように本願寺攻撃の主将格であった塙直政が戦死し、直政の一族郎党は信長の追及をうけて没落した。そして、佐久間信盛がその後任となって対本願寺戦を指揮し、畿内において織田家中最大規模の兵力を統率することになった。しかし、その佐久間信盛も、天正8年(1580年)の本願寺の退去による石山合戦終結まではその地位にあったものの、対本願寺戦において非積極的であったと信長に折檻状を突きつけられ失脚した。代わって信長の実質的本拠地たる畿内で大軍団を率いることになったのが、この戦いで信長が率先して救助した明智光秀であった。
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