影響と戦争中の役割
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:57 UTC 版)
「レニングラード包囲戦」の記事における「影響と戦争中の役割」の解説
独ソ戦の開始から数週間でのソ連軍の敗退は連合国の人々を意気消沈させたが、レニングラードの抵抗は人々を勇気付けた。レニングラードは1945年にスターリンによって英雄都市の称号を与えられた。 包囲戦の犠牲者数については諸説がある。戦後のソ連政府による公式発表は死者67万人というものであったが、他の研究では死者は70万人から150万人、多数説としては110万人程度という推計値が示されている。犠牲者の多くはピスカリョフ記念墓地に埋葬された。 包囲戦の記憶は市民の心に暗い影を落とした。市民はそれまでレニングラードが文化都市であることを誇りとしてきた。図書館の蔵書や18世紀の骨董家具を燃やすか、それとも凍え死ぬかという選択は辛いものであった。一方、レニングラードが900日近くにわたって抵抗を続け、「トロイも陥ち、ローマも陥ちたが、レニングラードは陥ちなかった」ことは市民の新たな誇りともなった。 今日でもサンクトペテルブルク市内では、ドイツ軍による砲撃を避けるために設置された標識が修復され保存されている。 一方でレニングラードはドイツ軍の包囲下で市民が餓死する中、市内の兵器工場群をフル稼働させ大量の兵器を生産し兵器廠として機能し続けた。工場から出荷された兵器はレニングラード守備軍にはまわされず各戦線のソ連軍に供給された。1941年7月~12月だけで戦車500両、装甲車600両、野砲2400門、機関銃1万挺、砲弾300万発、ロケット砲3万発を出荷し独ソ戦の勝利に大きな貢献をはたした。
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