タウンボーイ
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1981年に刊行された『タウンボーイ』(Town Boy) は『カンポンボーイ』の続編である。物語の舞台は多文化都市イポーに移り、『カンポンボーイ』で家庭内に終始していたマットの生活も広がってゆく。マットは学校に通い、アメリカのポップミュージックと出会い、新しくできたさまざまな人種の友人と町を駆け回り、悪ふざけを楽しむ。中国系のフランキーとはロック好き同士で、プレスリーの曲を共に聴いてエアギターを弾き、絆を深めていく。年頃になると「イポーで注目度ナンバーワンの女の子」ノルマとデートする。やがて皆が学校を卒業する時期が来て、イギリスに進学するフランキーと駅で別れを交わす。 『タウンボーイ』のストーリーは作者がイポーで過ごした青春時代の思い出を集めたものである。ラットは本作を書いた動機について「音楽について少しは知ってるんだってところを見せたかった」と言っているが、友情が中心的なテーマであり、フランキーが進学のため英国に向けてイポー駅を発つシーンが物語の幕切れとなる。ただし単純に人種間の美しい友情を謳い上げるのはラットの望むところではなかったため、多様なバックグラウンドを持つ当時の友人たちをフランキーに代表させ、音楽を通じて友情を結ぶようにさせた。作中では表立って描かれないものの、当時のマレーシア社会ではマレー系と中国系の対立があり、マットとフランキーが友情を育むのは「ほんとうはとても勇気のいること」だった。二人がフランキーの家で音楽を聴いて友情を結ぶ下りはジャーナリストのリズワン・A・ラヒムなどによって印象深いシーンとして挙げられている。 『タウンボーイ』の画面構成は『カンポンボーイ』よりもバリエーションが豊富で、「見開き2ページの大ゴマをいくつか並べたシークエンス」も使われている。コミックアーティストのセス(英語版)は、ラットの絵が「活力と未加工のエネルギー」に満ちており、「全体的に風変わりなスタイルで描かれているが、それを支えているのは現実世界を驚くほど正確に捉える観察力だ」と評した。「ラットのきわめてユーモラスかつ人間的な」キャラクターたちがページ全体に描かれた群衆シーンが数か所あり、コミックジャーナリストのトム・スパージョン(英語版)はそれらについてこう述べた。「『タウンボーイ』を読んでいると、雨が止んだばかりのストリート・フェアを見て回っているように感じるときがある。ありふれていたはずの存在が、一つの出来事によって何もかもくっきりと見えるようになったときのように。この街並みにはつい迷い込んでしまいそうになる」 異なる民族のキャラクターはそれぞれの母語でしゃべることがあり、その言葉は解説抜きの中国語やタミル語で書かれる。主人公のマット自身、学校では英語で、家庭ではマレー語を話す。ゴールドスミスとリズワンは外国語が作品を味わう障害にはならないと述べた。むしろそれらの言語は、英語が主流の世界とは異なる世界を作り出すのに役立っているという。中国語が飛び交うフランキーの家をマットが訪問する描写は文化を超えて伝わるもので、子供が新しい友達の家に行って「異質な、しかしどこか見慣れた日常」に触れたときの感じをリアリスティックに写し取っている。 2005年の時点で『タウンボーイ』は16回増刷を重ね、フランス語と日本語にも翻訳されていた。同作へのレビューは好意的なものだった。司書のジョージ・ガルシャクは詳細に描かれた群衆シーンや、多様性のあるキャラクター(人間だけでなく動物も含めて)を評価した。またラットの絵が持つ「エネルギー」はセルジオ・アラゴネス(英語版)やマット・グレイニングを連想させるとされた。ロサンゼルス・タイムズにレビューを寄稿したローレル・モーリーは、本書をチャールズ・シュルツ独特のメランコリーを差し引いた『ピーナッツ』に例え、存在感のあるキャラクターたちが触れ合う様子に温かみがあると述べた。 多くの読者は『タウンボーイ』を前作より高く評価しているが、トム・スパージョンの考えでは、本作は凡百の作品より優れているとはいえ、よりテーマが絞られた『カンポンボーイ』には及ばない。スパージョンによると『カンポンボーイ』に比べて『タウンボーイ』は散漫な逸話が多く、主人公が初めて経験することのそれぞれが十分に掘り下げられていないという。
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