1985~1995年: ジミー・ソマーヴィル脱退後とは? わかりやすく解説

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1985~1995年: ジミー・ソマーヴィル脱退後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 05:14 UTC 版)

ブロンスキ・ビート」の記事における「1985~1995年: ジミー・ソマーヴィル脱退後」の解説

1985年11月、新ボーカリストジョン・フォスター迎えたブロンスキ・ビートは、『パーフェクト・ビート(英語版)』をリリース全英3位筆頭ヨーロッパでヒット飛ばし、やがてオーストラリアにも波及した。この曲はまた同年映画ブレジネフの手紙(英語版)』で使用されサウンドトラックアルバム収録された。続くシングルカモンカモン』は全英チャート20位、1986年5月リリースアルバム『トゥルースデア・ダブルデア(英語版)』は全英チャート18位を記録したニューヨークに住むゲイの生活を描いた映画別れ一瞥英語版)』のサウンドトラックに、ブロンスキ・ビートファーストアルバムから『ホワイ?』、『ラヴマネー』、『スモールタウン・ボーイ』が採用された。更にバンドプロデューサーのマーク・カニンガムと組んでスージー・クアトロキンクスと共にBBCチャリティ番組『チルドレン・イン・ニード(英語版)』のためのシングル作成参加デヴィッド・ボウイの『ヒーローズ』をカバーした。このシングルB面カニンガムの手によるオリジナル曲『ア・ロング・ウェイ・トゥ・ゴー』を収録した7インチ盤が、ザ・カウンティ・ライン名義リリースされた。 1987年フォスターバンド去った。ブロンスキとスタインバチェクは二人だけ次のアルバムアウトアバウト』の制作開始したレコーディングはブライアン・パグスレーをエンジニア迎えロンドンのベリー・ストリート・スタジオ(英語版)で行われたストロベリー・スウィッチブレイドのローズ・マクドール(英語版)をボーカル迎えた『ピース・アンド・ラブ』を始め、『ファイナル・スピン』、『ヨーロピアン・ボーイ』などの曲が生まれ新曲携えたツアー好評得た。しかしバンドロンドンレコードから離脱したため、アルバム完成することなくプロジェクト中止となった。これらお蔵入りした曲のうち、『ヨーロピアン・ボーイ』は1987年ブロンスキ・ビートプロデュースのもと、イギリスのディスコグループ、スプラッシュ7インチ及び12インチシングルリリースした。『ピース・アンド・ラブ』は2006年頃から複数インターネットサイト投稿されたほか、現在ではブロンスキのSoundCloudアカウント聴くことができる。同じく1987年、ブロンスキとスタインバチェクはニュー・オーダーと共に国際エイズデーのためのライブ開催。ロンドンブリクストン・アカデミーの会場で、このイベント限定復帰果たしたソマーヴィルとトリオでのライブパフォーマンス披露した1989年、ジョナサン・ヘリヤーをボーカリスト迎えたバンドは、バッキングボーカルにアニー・コンウェイを加えアメリカヨーロッパ精力的にツアーした。全英32位のヒットとなった『チャ・チャ・ヒールズ』では、俳優シンガーアーサー・キットとのコラボ実現した。この曲は元々同じく俳優シンガーディヴァイン捧げられたが、1988年急死によりレコーディング実現しなかった。1990年~1991年掛けてマイク・ソーンプロデュースによりゾンバ・レコードレーベルから3枚シングル、『アイム・ゴナ・ラン・アウェイ』、『ワン・モア・チャンス』、『ホワット・モア・キャン・アイ・セイ』がリリースされた。 1993年フォスターバンド復帰し、テクノチューンの『ホワイ???』と対照的なアコースティックバージョンの『スモールタウン・ボーイ'94』が、ドイツZYXミュージック英語版レーベルからリリースされた。翌年リリースされアルバム『レインボー・ネイション』にフォスター参加せずヘリヤーが復帰した。このアルバムにはまたキーボード及びプログラミング担当としてイアン・ドナルドソンが参加した。 しばらくツアー続けた1995年ブロンスキ・ビート解散し各々の道に進んだ。スティーブ・ブロンスキはプロデューサー稼業勤しみ、イアン・ドナルドソンはSordid Soundz名義DJとして成功収めた。ラリー・スタインバチェクは、マイケル・ラウブ(英語版)の劇団「リモート・コントロール・プロダクションズ」の音楽監督就任したゲイ高校生成長描いた1998年の映画エッジ・オブ・セブンティーン』で、『スモールタウン・ボーイ』と『ホワイ?』が使用された。1984年舞台のこの映画では曲がサウンドトラックとして使用されただけでなく、ゲイ目覚めつつあった主人公人目を忍んで『エイジ・オブ・コンセント』を購入したり、自室でこっそり『ホワイ?』を聞いているところに母親が突然現れ慌てて見入っていた歌詞カードを隠すシーンなど、映像としてもブロンスキ・ビートの作品登場した

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