1983~1985年: 全盛期
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「ブロンスキ・ビート」の記事における「1983~1985年: 全盛期」の解説
「エイジ・オブ・コンセント」も参照 1983年、ブロンスキ・ビート結成時のメンバーは、グラスゴー出身のジミー・ソマーヴィル(ボーカル)と、スティーブ・ブロンスキ(キーボード、パーカッション)、そしてサウスエンド=オン=シー出身のラリー・スタインバチェク(キーボード、パーカッション)で、彼らはロンドンのブリクストンにあるマンションで共同生活を送っていた。ドキュメンタリー映画『実録:性的マイノリティであるティーンエイジャーたちの逆襲(英語版)』制作中に、ソマーヴィルの悲鳴の如き歌声を聞いたブロンスキとスタインバチェクは一緒に音楽を作ろうと誘った。彼らはおとなしくてお行儀の良い当時のゲイパフォーマーたちに不満を抱いており、もっとストレートで政治的な活動をしたいと考えていた。バンドデビューの舞台となったのは、1983年ロンドンで初めて開催されたレズビアン&ゲイの芸術祭「セプテンバー・イン・ピンク」だった。 ブロンスキ・ビートは計9回のライブを経て1984年にロンドンレコードとレコーディング契約(英語版)を結んだ。デビューシングルの『スモールタウン・ボーイ(英語版)』は、ゲイのティーンエイジャーが親元を離れ故郷を去る悲哀を描いており、全英シングルチャートで3位、全米シングルチャートで48位となり、オランダやベルギーでもチャート入りを果たした。バーナード・ローズが監督したミュージック・ビデオはドラマ仕立てとなっておりバンドメンバー全員が参加した。ソマーヴィル扮するゲイの少年が見つめる先は、思いを寄せる男子が泳ぐプールだった。ゲイの友人(ブロンスキとスタインバチェク)にも後押しされ、勇気を持って男子に話し掛けたソマーヴィルだったが、忌み嫌われた挙句男子とその友人たちにリンチされてしまう。結局警察沙汰になり、親とも心底理解し合うことは叶わず、列車に乗って街を去る姿が描かれていた。Hi-NRGテイストを纏った第2弾シングル『ホワイ?(英語版)』は、一層明確にゲイに対する偏見に焦点を当てた作品となっており、イギリス、オランダ、スイス、ドイツ、フランス、オーストラリアでトップ10入りした。 1984年10月、ファーストアルバム『エイジ・オブ・コンセント(英語版)』がリリースされた。この「性的同意年齢(Age of consent)」と題するアルバムのレコードジャケット内側には、ヨーロッパ各国のゲイ同士における性的同意年齢が列挙されていた。イギリスの場合は異性間の性行為同意年齢16歳に対し、男性同士の同意年齢は21歳と厳しく、ヨーロッパにはイギリスより同性愛者に寛大な国が多く存在した。当時の苦労についてブロンスキは、「ロンドンは地方に比べればゲイにとっては住みやすい環境だったね。僕らはデビュー当初からカミングアウトしていたから、ファンに嫌われたり売り上げが落ちる心配をすることもなかったよ。」と回想している。アルバムは全英アルバムチャートで4位と大ヒットしたほか、アメリカで36位、オーストラリアで12位を記録した。 同じ頃バンドはロンドンのエレクトリック・ボールルーム(英語版)で開催された、レズビアンズ・アンド・ゲイズ・サポート・ザ・マイナーズ(英語版)(LGSM)の資金調達を目的としたライブイベント「鉱山と性的マイノリティ」でオープニングアクトを務めた。このイベントの様子は映画『パレードへようこそ』でも紹介され、同作のサウンドトラックに『ホワイ?』が収録された。1984年のクリスマス前にリリースされたサードシングルは、『ポーギーとベス』からのジョージ・ガーシュウィンとアイラ・ガーシュウィンによる名作『そんなことはどうでもいいさ(英語版)』をカバーした『エイント・ネセサリリー・ソー』で、全英トップ20に入るヒットとなった。 1985年、バンドはマーク・アーモンドと組んでドナ・サマーの『アイ・フィール・ラブ(英語版)』のカバーバージョンを録音した。フルバージョンは同じくサマーの『ラブ・トゥ・ラブ・ユー・ベイビー(英語版)』とジョン・レイトン(英語版)の『霧の中のジョニー(英語版)』の一部を交えたメドレー仕様となっていた。このコラボレーションは成功し、全英3位に入るなど『スモールタウン・ボーイ』に次ぐヒットとなった。なおマーク・アーモンドは『アイ・フィール・ラブ』が大のお気に入りだったにもかかわらず、元の歌詞を見ていなかったため「Falling free, falling free, falling free」と歌うべき部分を、誤って「Whatll it be, whatll it be, whatll it be」と歌っている。 この時期バンド内では個人的な確執あるいは音楽性の相違から緊張が高まり、遂に1985年の夏ソマーヴィルの脱退に至ってしまった。ソマーヴィルはリチャード・コールズ(英語版)とコミュナーズ(英語版)を結成し、ブロンスキ・ビートは代わりのボーカルを探すこととなった。ソマーヴィル脱退前に完成していたニューシングルの『ラン・フローム・ラブ』は、既にポリグラムによりプロモーションが開始されていたが、この事態を受けてリリースは中止された。『ラン・フローム・ラブ』はその後、リミックス曲やB面を集めたコンピレーション・アルバム『ハンドレッズ&サウザンズ(英語版)』に、『アイ・フィール・ラブ』と共に収録され日の目を見た。
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