1983~1985年: 全盛期とは? わかりやすく解説

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1983~1985年: 全盛期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 05:14 UTC 版)

ブロンスキ・ビート」の記事における「1983~1985年: 全盛期」の解説

「エイジ・オブ・コンセント」も参照 1983年ブロンスキ・ビート結成時のメンバーは、グラスゴー出身のジミー・ソマーヴィル(ボーカル)と、スティーブ・ブロンスキ(キーボードパーカッション)、そしてサウスエンド=オン=シー出身のラリー・スタインバチェク(キーボードパーカッション)で、彼らはロンドンブリクストンにあるマンション共同生活送っていた。ドキュメンタリー映画実録性的マイノリティであるティーンエイジャーたちの逆襲英語版)』制作中に、ソマーヴィルの悲鳴如き歌声聞いたブロンスキとスタインバチェクは一緒に音楽作ろう誘った。彼らはおとなしくてお行儀良い当時のゲイパフォーマーたちに不満を抱いており、もっとストレート政治的な活動をしたいと考えていた。バンドデビュー舞台となったのは、1983年ロンドン初め開催されレズビアンゲイ芸術祭「セプテンバー・イン・ピンク」だった。 ブロンスキ・ビートは計9回のライブ経て1984年ロンドンレコードレコーディング契約英語版)を結んだデビューシングルの『スモールタウン・ボーイ(英語版)』は、ゲイティーンエイジャー親元離れ故郷を去る悲哀描いており、全英シングルチャート3位全米シングルチャート48位となり、オランダベルギーでもチャート入り果たしたバーナード・ローズ監督したミュージック・ビデオドラマ仕立てとなっておりバンドメンバー全員参加した。ソマーヴィル扮するゲイ少年が見つめる先は、思いを寄せる男子が泳ぐプールだった。ゲイ友人(ブロンスキとスタインバチェク)にも後押しされ勇気持って男子話し掛けたソマーヴィルだったが、忌み嫌われ挙句男子とその友人たちにリンチされてしまう。結局警察沙汰になり、親とも心底理解し合うことは叶わず、列車に乗って街を去る姿が描かれていた。Hi-NRGテイストを纏った第2弾シングルホワイ?(英語版)』は、一層明確にゲイ対す偏見焦点当てた作品となっており、イギリスオランダスイスドイツ、フランスオーストラリアトップ10入りした。 1984年10月ファーストアルバム『エイジ・オブ・コンセント(英語版)』がリリースされた。この「性的同意年齢Age of consent)」と題するアルバムレコードジャケット内側には、ヨーロッパ各国ゲイ同士における性的同意年齢列挙されていた。イギリスの場合異性間性行為同意年齢16歳対し男性同士同意年齢21歳厳しくヨーロッパにはイギリスより同性愛者寛大な国が多く存在した当時苦労についてブロンスキは、「ロンドン地方比べればゲイにとっては住みやすい環境だったね。僕らデビュー当初からカミングアウトしていたから、ファン嫌われたり売り上げ落ちる心配をすることもなかったよ。」と回想している。アルバム全英アルバムチャートで4位と大ヒットしたほか、アメリカで36位、オーストラリア12位を記録した。 同じ頃バンドロンドンのエレクトリック・ボールルーム(英語版)で開催された、レズビアンズ・アンド・ゲイズ・サポート・ザ・マイナーズ(英語版)(LGSM)の資金調達目的としたライブイベント「鉱山性的マイノリティ」でオープニングアクト務めた。このイベントの様子映画パレードへようこそ』でも紹介され同作サウンドトラックに『ホワイ?』が収録された。1984年クリスマス前にリリースされたサードシングルは、『ポーギーとベス』からのジョージ・ガーシュウィンアイラ・ガーシュウィンによる名作『そんなことはどうでもいいさ(英語版)』をカバーした『エイント・ネセサリリー・ソー』で、全英トップ20に入るヒットとなった1985年バンドマーク・アーモンド組んでドナ・サマーの『アイ・フィール・ラブ(英語版)』のカバーバージョン録音した。フルバージョンは同じくサマーの『ラブ・トゥ・ラブ・ユー・ベイビー(英語版)』とジョン・レイトン(英語版)の『霧の中のジョニー英語版)』の一部交えたメドレー仕様となっていた。このコラボレーション成功し全英3位に入るなど『スモールタウン・ボーイ』に次ぐヒットとなった。なおマーク・アーモンドは『アイ・フィール・ラブ』が大のお気に入りだったにもかかわらず、元の歌詞見ていなかったため「Falling free, falling free, falling free」と歌うべき部分を、誤って「Whatll it be, whatll it be, whatll it be」と歌っている。 この時期バンド内では個人的な確執あるいは音楽性相違から緊張高まり遂に1985年の夏ソマーヴィルの脱退至ってしまった。ソマーヴィルはリチャード・コールズ(英語版)とコミュナーズ英語版)を結成しブロンスキ・ビート代わりボーカル探すこととなった。ソマーヴィル脱退前に完成していたニューシングルの『ラン・フローム・ラブ』は、既にポリグラムによりプロモーション開始されていたが、この事態受けてリリース中止された。『ラン・フローム・ラブ』はその後リミックス曲やB面集めたコンピレーション・アルバム『ハンドレッズ&サウザンズ英語版)』に、『アイ・フィール・ラブ』と共に収録され日の目を見た

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