イギリスの場合
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イギリス国では多くの栄誉が艦隊とその指揮官に授けられた。ハウはすでに伯爵であり、いかなる昇格も辞退した。ジョージ3世はハウをガーター勲爵士にと考えたが、ハウの政敵の1人がそれを思いとどませた。グレーブス提督はアイルランド貴族のグレーブス男爵に叙せられ、フッド提督がブリッドポート男爵となった。少将であるボウヤー、ガードナー、パスリーとカーティスはいずれも準男爵に叙せられ、またボウヤーとパスリーは、重傷を負ったその補償として1,000ポンドの年金を受けた。すべての艦の副長が海尉艦長に昇進し、その他多くの海尉がその戦闘の結果昇進した。戦いに参加した全員に対して議会の感謝が捧げられ、その他さまざまな寄贈品と賞金が艦隊に分配された。戦傷が原因で共に6月30日に亡くなったジョン・ハット艦長とジョン・ハーヴェイ艦長はウェストミンスター寺院で顕彰された。 しかし、表彰に関する苦々しい出来事もあった。それはハウの海軍本部への戦闘に関する急送公文書に基づくもので、そのうちいくつかの部分は実はカーティスによって書かれたものだった。ハウは戦闘で果たした役割が、特別褒賞に値すると考えた指揮官の名前を含む名簿を報告書に追加した。そのリストにはグレーブズ、フッド、ボウヤー、ガードナー、パスリーの各提督と、シーモア、パケナム、クランフィールド=バークレー、ガンビア、ジョン・ハーベイ、ペイン、ヘンリー・ハーベイ、プリングル、ダックワース、エルフィンストーン、ニコルズおよびホープの各艦長が含まれていた。また、モンクトン海尉とダネリー海尉も言及されていた。 このリストには戦闘に参加した何人分かの指揮官の名前がなかった。その指揮官名の省略が正当であるか否かが、海軍内で大きな論争を引き起こした。海軍本部は各艦の航海日誌と戦況報告を精査した後、そのリストに載っていて、生存している艦長の数だけメダルを鋳造した。また、オーダシャスのウィリアム・パーカー艦長も同様に認められた。リストから除外された艦長は憤激し、この人選を巡っての騒ぎは何年も続いた。1795年にはコールドウェル提督が激怒した。バーフラーの旗艦艦長であったカスバート・コリンウッドにメダルが授与されなかったからであり、「栄光の6月1日」のメダルが彼に授与されるまですべての褒賞を辞退し、任務も拒否するとした。結局コリンウッドは、1797年のサン・ビセンテ岬の海戦の後でメダルを受けた。それから50年以上が経った1847年、この戦闘はサービスメダルの授与対象と認められ、略章と共に、その時点で存命であったイギリス人の参戦者すべてにメダルが授与された。 シーザー艦長のアンソニー・モロイへの中傷攻撃は最も激しかった。モロイは、5月29日と6月1日のハウの命令への不服従について、仲間の指揮官から臆病であるという告発を受けた。軍法会議の公式記録から、名前を消去するというモロイの要求は認められなかった。モロイの個人的な勇気については問題視されなかったが、専門能力を問われることとなった。モロイは艦の指揮権を失うという刑罰に処せられ、実質的に海軍から解雇された。 捕獲された艦のうち、数隻はイギリス海軍に購入され、その後長期間にわたって就役した。特にサン・パレイユはイギリス艦「サンス・パレイルとして長く使用された。ジュスト(イギリス軍艦ジャスト)はアミアンの和約によって退役するまで現役に留まっていた。他の捕獲艦のうち、アシレとノーサンバーランドは就役不能として、イギリス到着後すぐに解体された。アンペテューは、修理中に造船所の火災で破壊された。最後のアメリカは、イギリス艦インペテューズとして就役し、1813年まで現役だった。これらの艦の拿捕で得られた賞金は20万1096ポンド(2013年現在の価格で1億8千万ポンド)にもなり、ハウの艦隊の艦に分配された。
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イギリスの場合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 17:48 UTC 版)
イギリスでは近代になるまで一般庶民を対象とした教育機関はほとんど未整備で、聖職者の家庭や教会でキリスト教の説教とともに簡単な読み書きが教えられるにすぎなかった。上流階級でも子弟が教育機関で教育を受けることはほとんどなく、代わりに学者が住み込みで家庭教師として子弟の教育にあたっていた。 ヴィクトリア時代の上位中産階級では幼少期はガヴァネスと呼ばれる女性の家庭教師が読み書き計算、教養、礼儀作法を教えた。男子は成長するとチューター(tutor)からより高度な教育を受けるか、寄宿舎のある名門校に通うため家を出た。チューターは学者や芸術家であり自身の専門分野をパートタイムで教えていた。 家庭教師を行っていた著名な人物には、劇作家のベン・ジョンソンやトマス・ホッブズがいる。アダム・スミスはグラスゴー大学教授を辞めて貴族の家庭教師になっている。
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