イギリスの変化
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「イギリスの変化」の解説
「グレートブリテン王国」、「イギリス帝国」、「イギリス商業革命」、「近世から近代にかけての世界の一体化」、「第2次百年戦争」、および「産業革命」も参照 ステュアート朝成立以来、イギリスではイングランド王国とスコットランド王国の同君連合の形態がとられてきたが、アイルランドやスコットランドでは名誉革命によってフランスに亡命したジェームズ2世を正統な君主とみなすジャコバイトによる反体制運動が旺盛で、国内的な脅威となっていた。そのため、イングランドとスコットランドの両国を合わせて一国とするための交渉がなされ、1707年に合同法が発効して「グレートブリテン王国」が成立した。1714年、アン女王が継嗣のないままに死去し、1701年イングランド王位継承法に従ってハノーファー選帝侯のゲオルクがジョージ1世として即位した。ジョージ1世は即位時すでに54歳でイギリスの政治事情にも通じておらず、英語も話せなかったために議会にはほとんど出席せず、ジェームズ・スタンホープら有力閣僚に行政を一任したので、国政は内閣によって指導されるようになった。 フランスでは政教分離化(ライシテ化)のプロセスが優先したのに対し、イギリスでは世俗化のプロセスが優先した。イギリスでは名誉革命以降に王室財政と国家財政の分離が進み、1694年にはウィリアム3世の母国オランダからの資本をもとにイングランド銀行が創設されるなど、「財政革命」が進展していた。ロンドンのシティには国債や抵当証券の本格的な取引市場が成立し、土地ではなく金融・有価証券に基礎をおく「証券ジェントルマン」と呼ばれる階層を出現させた。1720年、投機ブームによって生じた株価の急騰と暴落は南海泡沫事件と呼ばれて経済的混乱を招いたが、1721年にはロバート・ウォルポールが第一大蔵卿に就任して閣議を主催し、他の閣僚を統制して実質的なイギリス首相として議会の支持をもとに混乱を収拾させ、責任内閣制の基礎を成した。ウォルポールは対外的には平和戦略をとり、国内的には反対派のトーリー党を「ジャコバイト」として攻撃することで強力な政治基盤を構築していった。 局面欧州での戦争北米での戦争その他の係争講和条約・戦後処理1 プファルツ継承戦争(1688年-1697年) ウィリアム王戦争(1689年-1697年) - ライスワイク条約(1697年) 2 スペイン継承戦争(1701年-1713年) アン女王戦争(1702年-1713年) - ユトレヒト条約(1713年)・ラシュタット条約(1714年) 3 オーストリア継承戦争(1740年-1748年) ジョージ王戦争(1744年-1748年) 第1次カーナティック戦争(1744年-1748年) アーヘンの和約(1748年) 4 七年戦争(1756年-1763年) フレンチ・インディアン戦争(1755年-1763年) プラッシーの戦い(1757年) パリ条約(1763年)・フベルトゥスブルク条約(1763年) 5 - アメリカ独立戦争(1775年-1783年) - パリ条約(1783年) 6 フランス革命戦争-ナポレオン戦争(1792年-1815年) - - ウィーン議定書(1815年) しかし、「ウォルポールの平和」は18世紀のイギリスにあっては例外的に過ぎず、むしろこの世紀はたび重なる対仏戦争の繰り返し(第2次百年戦争)であり、しかもこれらの戦争はアメリカの独立を除けばすべてイギリス側が勝利した。イギリスが戦争に勝利し続けたのには戦費調達能力に優れていたことに理由が求められ、つまりは「財政革命」の成功がその根本的な要因であった。18世紀のイギリスは後世「財政・軍事国家」と称されるほど重い租税が課されていたが、フランスのように徴税請負人には頼らず、国家官僚による効率的な徴税がなされたうえ、納税者各階層の利害を反映したイギリス議会からの保障が付されていた。議会による保障は、なおも世界金融の中心となっていたアムステルダムの資金がイギリス市場に大量に流入することも可能にしており、したがって英仏戦争の勝敗は少なからずオランダ資本がフランスにではなくイギリス(グレートブリテン王国)に流れたという事実によっていたのである。 18世紀のイギリス史は「大英帝国」形成の歴史であると同時に植民地貿易の爆発的な発展の歴史でもあり、その過程で「イギリス商業革命」と呼ばれる変化が生じた。これはイギリス人の生活様式を一変させ(「生活革命」)、13植民地でも生活における「イギリス化」、すなわちアメリカにおける生活革命をも招いた。七年戦争前後からは、いわゆる「産業革命」が進行して社会構造も大きく変化していった。
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